「誰でも表現者」時代の本質は「リズムと社交」 世界を広げる読書案内としての「山崎正和」評伝
ところが、これから同書を読む人々は、山崎の指摘の多くが、当時よりも遙かに、情報化が進捗した今日に親和性を持っていることに気づき、それが山崎の思惑通りに駆動していないことに驚き、そこに何が欠けているのかを深く考えることになるだろう。そして山崎は、同書にも次なる時代を見通すヒントを忍ばせていた。
自身の読書と思考の糧として
それはリズムということである。山崎は、人間の主体性にとって流れに身を任せることは受動(自然)的な営みであり、リズム(生活をコントロールするある種の規則性)によってそれを統御しようとするのは能動(文化)的な営みであるという。そして、リズムの中に生まれる意識の両義性を踏まえた上で、その漸層的な位置に「文明的」な営みがあるのではないかと指摘するのである。この着想は晩年に向かう山崎の思想の基調となり、2018年に刊行された『リズムの哲学ノート』、山崎の死後刊行された『哲学漫想』(ともに中央公論新社)へと引き継がれた。
このように本書『山崎正和の遺言』には、故人の魅力的な人となりや事績にとどまらず、思想的遍歴において要路を占めた著作群のエッセンスが、ひっそりと顔を覗かせている。紙幅の制約から一部しか紹介できなかったが、ほかにも『文明の構図』(文藝春秋)や『歴史の真実と政治の正義』(中公文庫、電子版あり)といった評論や『世阿彌』(新潮文庫、電子版あり)を中心とする歴史に材を取った戯曲などは、ぜひ手にして欲しいところだ。そこに表出する山崎正和の思索の一端を追体験することで、私たちは自分自身の社会観察や分析、行論の客観性や妥当性をはかる上で得がたい基準点とチャートを手にすることができるだろう。
今日、言論の主たる舞台は新聞や論壇誌からネット上へと移りつつある。しかしながらネットでの論争は、匿名性と文字数の制約と拡散の容易さゆえ、十分な検証を伴う精緻な議論となりにくく、ときに印象批評や感情的条件反射の声量が他を圧することも珍しくない。
こうした時代に、一人一人がきちんと考えることの重要性は、これまでになく高まっている。本書が一人でも多くの読者の傍らに置かれること、それぞれが山崎の言葉に耳を傾け、さらに読書の幅を広げ、日々の糧とされることを心から願ってやまない。
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