「誰でも表現者」時代の本質は「リズムと社交」 世界を広げる読書案内としての「山崎正和」評伝

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ほとばしる才気によって早くから活躍の場に恵まれた人物が、多岐にわたった遍歴を終えようとするにあたり、劇作家、評論家、研究者、教育者、演出家というさまざまな容貌の仮面を脇に置いて語った最期の言葉には、成し遂げたことを恬淡と振り返り、成そうと考えてきたことを今一度整理し、為し得なかったことをあらためて後進に託そうとする、深い思いが込められているようだ。

ちりばめられた手がかり

本書は、各章の冒頭に山崎へのインタビューのやりとりが置かれ、その内容に添って叙述が進む構成となっている。要所に織り込まれる山崎の言葉、関係者の証言やエピソード、著者の分析はいずれも興味深いが、わけても注目したいのが山崎の旧著、これまで関わった書籍に対する言及である。言行一致、というほど大げさではないものの、現代文明、近代化、日本社会、歴史認識、戦後民主主義、自由主義等々に対して山崎が一貫して抱き続けた評価と問題意識が、そのつど表現手法や体裁を変えながら世に送られていたのだということを、再確認する思いがする。

本書中にはじめてタイトルが挙がる山崎作品は『鴎外 闘う家長』(新潮文庫、電子版あり)である。日本における近代とはどのような時代であったか、家とは、父とは何だったのか、そして自我とは何か、といった疑問を明治の文豪・森鴎外の生涯から逆投影する本作が、日本、そして山崎のルーツともいうべき満洲という2つの国家が、第2次世界大戦の敗北によって崩壊する様を目の当たりにした経験に由来することを知るとき、そして、鴎外というフィルターを自分自身であると告白する山崎の言葉を聞くとき、作品のまとう陰影が一気に深くなるように感じるのは気のせいではない。

アメリカの黄金期である1920年代を活写したフレデリック・アレンの『オンリー・イエスタデイ』(ちくま文庫)を枕に、1960年代日本の姿を振り返った『おんりい・いえすたでい′60s』(文春文庫)は本邦における同時代史の白眉といえる作品だが、そこに現れる分析と評価の軸は山崎の生涯を貫くものであった。

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