──教養を学ぶようになってから学生は変化しましたか。
授業後に、東工大生からもらう感想には、「専門のことばかり考えていて視野が狭かった。世の中のことを考えていかなければ」「さらにこういうことを勉強するにはどうしたらいいでしょうか」といった内容がくるようになった。
東工大で教え始めた頃の教え子は、電気関係のメーカーやIT企業に行く学生が多かったように思う。教え子たちとはここ数年読書会をやっているのだが、今、参加しているメンバーは公務員がけっこう多い。国や生まれ育った自治体の役に立ちたいという思いで選んだようだ。また、あえて原子力産業に入っていった学生もいる。「廃炉の技術を開発することが世のため、人のためだ」と言っていた。「ああ、俺が若者たちの人生を変えてしまったな」と思った。
安全と安心は違う
──東京大学では客員教授として「研究倫理」を担当していると伺っています。
定量生命科学研究所は研究不正が相次ぎ問題になっていた。理系の専門家ばかりの研究所で、文系の私に期待されている役割は、コンプライアンスの研修会や研究者の取り組みを一般の人に知ってもらうサイエンスカフェの主宰だ。
もう1つ、これは昨年も実施したが、東大生にリスクコミュニケーションの話をする。例えば今、トリチウムが含まれる福島原発の処理水を海に流すことが問題になっている。理系の専門家は「放射線をそれほど出すわけでもないし、体内に入っても問題ない」と言う。ところが世間一般は「安全だと言われても、安心できない」となる。つまり、安全と安心は違う。
こういうコミュニケーションのギャップがさまざまな問題を引き起こしている。「文系の人の安心感を得るにはどんなコミュニケーションが必要か」という話をしていく。文系の人には、「そもそも安全がどういうことなのかを理解しようよ」と呼びかけて橋渡しをする。
こうした取り組みもまさにリベラルアーツ(教養)だ。文系、理系に横串を刺すような学問で、よい生き方をしていくためのインフラとなるものだ。
──一方で、大学の中には文系の学生にも数学やデータサイエンスの基礎を学ばせる動きがあります。
数学は物事を論理的に考えていくための基礎となる。早稲田大学の政治経済学部の入試科目で数学が必須となったが、それでも数学Ⅰ・数学Aだ。せめてその程度は必要だということなのだろう。
数学がない入試のほうが表向きの偏差値は上がるかもしれないが、文系の学生にも数学を含めていろいろな物事を論理的に考える力が求められている。「うちの大学はこういうことを勉強するから、入試ではこれが必要」ということを打ち出していくことも重要だ。
それから統計学も大事。例えば、「南海トラフ巨大地震が今後30年以内に起きる確率が40%」「アメリカ・ファイザーのワクチンは94%の効果がありました」など、世の中に統計学をベースに議論されていることがたくさんある。
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