テレビ局「唯一の女性社長」意外なスタート地点 彼女が後輩の女性たちに一番伝えたい事とは?

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桒原氏は1979年にテレビ朝日に入社した。そもそも大卒女性の求人が少なく放送局なら女性も採用しておりなんとか入ったら営業局に配属された。当時は外勤の営業は男性の仕事で、女性社員はいわゆるお茶汲みとコピー取りだったという。

「それぞれの社員の“マイお茶碗”があって女性社員とアルバイトさんが曜日を決めてお茶当番をやっていました。朝と午後にお茶を入れるのが仕事で、これでお給料をもらえるなんてと思っていました」

当時も報道や制作の部署では女性社員が活躍していたが、営業は「男の仕事」だったのだ。桒原氏はそこに不満を持ったわけではないという。だが、営業局内で別の部署に異動したとき、先輩が入院してしまう。代わりにお前がやれと言われてタイム営業のデスクをやるようになった。

「ちょっとした専門用語も知らず、大丈夫かなと思われてるのがわかるし、進行表をCM部に持っていったらビリビリ破られたこともありました。認めてもらいたいと一所懸命やってたら周りが自然に助けてくれるようになりました」

番組にはスポンサーがついて制作費と電波料をもらって成立する、というテレビビジネスの基本を学んだ。練習のつもりで自分でも企画を出したら大手代理店の人が認めてくれて、実際に番組になった。

「そのとき初めてスポンサーに行ってプレゼンできて楽しかったんです。仕事ってこういうことなんだなと思えました」

「部長になればやることが広がるぞ」

その後、営業局で頑張ってきたが出世街道まっしぐら、ということでもなく、同期の男性より2段階くらい遅れていた。無理に昇進しなくてもと思っていたら当時の上司に言われたことが胸に刺さった。

「“自分はこれくらいでいいと思うことは間違っている。この会社の中で自分がやることがあるのなら、部長になればやることが広がるぞ“そう言われて、考え直しました」

新しい部署としてお客様フロント局の設立を提案。自分はその部署で部長になった。

「視聴率は数字で人ではない。視聴者と直接つながっていきましょうという提案です」

2000年前後のテレビ朝日は視聴率も売り上げも4位。何をやってもうまくいかないとの愚痴が社内で広がっていた。そんな中、「ブランディング」の重要性に気づき、新部署で具体化していった。

「今も続いてますが出前授業や館内見学などで視聴者にダイレクトにテレビを知ってもらうことをはじめました」

同じタイミングでサッカーアジアカップの獲得、そして「アメトーーク!」や「TRICK」などドラマやバラエティーでもヒットが出て社内の空気が変わっていった。

2003年に六本木ヒルズに移転して以降、社屋を訪れるたびにテレビ朝日の空気が明るくなったのを覚えている。番組の好調がある一方で、お客様フロント局の活動が内側からその空気を作っていたのかもしれない。2008年、桒原氏はその部署の局長になった。

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