豊田アナ「私が鬼教官と呼ばれる道を選んだ理由」 アナウンサーが新人研修担当者になった経緯
私達はアナウンサーである以前に、「日本テレビ放送網株式会社の社員」ですので、他の企業と変わらない業務もありますし、社歴を重ねる上で悩みも生まれてきます。私がアナウンサーとしての転換期を迎え、社内での居場所を見失いかけていた時、専門職としての自分を見つめ直し、新人研修・人材育成こそ「私のやるべき仕事だ」と思えたのです。
1990年に日本テレビに入社してから、私はアナウンサーとしての道程を順調に歩んできたといえるかもしれません。1998年にスポーツから報道へとジャンルの転換はありましたが、入社してから今まで、出演するレギュラー番組が途切れることは、ほとんどありませんでした。
新しい番組がスタートして、いずれは終わる。テレビ局はその繰り返しです。自分が出演している番組の打ち切りを告げられないことなんて日常茶飯事。スタッフのあいだにどことなく終わる気配が漂ってきて、プロデューサーに「この番組、終わるのでしょうか?」と単刀直入に聞いたら、「あれ、知らなかった?」みたいな場面は、私にとってよくあるデジャヴです。そんな中でカメラの前に立ち続けられたのですから、本当にありがたい限りです。
番組降板から「地道な業務」へ
もちろんこれは私の才能や努力による結果ではありません。ある程度は認められたものもあったかもしれませんが、アナウンサーも1人の会社員ですから、運命は常に会社の手に握られています。
私が仕事を徐々に覚えていき、成長できたのは、昭和世代のビジネスマナーを色濃く残した先輩・上司のガサツ・ガッツ・ガチンコの厳しさに体当たりしながら、業務の基本を叩き込まれてきたからです。そして、女性が仕事を続けていく難しさとの我慢比べを生き抜いてきたからです。これはアナウンサーだけではなく、男女雇用機会均等法の施行を受けてバブル期に入社し、コンプライアンスの時代になった今も企業で働き続けている女性なら共通した感覚ではないでしょうか。
2003年、37歳の時に私は『NNNきょうの出来事』のフィールドキャスターを降板しました。以降、「攻め」の出演ではなく、週末の深夜ニュースと情報番組『ズームイン‼ SUPER』のニュース企画といった、守備的な役割が求められるようになりました。
私が辿った道は決して珍しいケースではなく、当時の女性アナウンサーにとっては予想の範囲内だといえるでしょう。今の30代半ばの女性アナウンサーの中には、バリバリの現役として自分の仕事だけに邁進できている人もいますが、20年前は30歳を過ぎたら新規レギュラーの仕事は減っていくのが当たり前でした。
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