リベラルアーツ教育の最後に「進化論」を学ぶ意味 コロンビア大学教養講座が伝える「学びの核心」
人類の歴史は競争、闘争の歴史です。それは生物学的に見れば、生存競争であり、自然淘汰であり、必要な変異の繰り返しだったわけです。むしろ人間も生物の種である以上、これらは宿命だったとも言えます。
では、進化論の観点から人間を見た場合、ここまで学んできたリベラルアーツをどう解釈すればいいのか。それを最後の課題として提示しているのです。
リベラルアーツは、古代ギリシャに端を発するヘレニズムに基づいています。太古から続く大小さまざまな「争い」を繰り返しながら、人間はプラトンの説く「理性」とアリストテレスの説く「習慣」に気づき、「哲学」「宗教」「芸術」「サイエンス」を次々と発明してきました。それが人間性を高め、社会を発展させたわけです。
リベラルアーツはなぜ価値があるか
そこで1つの疑問が浮かびます。「理性」にしろ「習慣」にしろ、あるいはその後の「哲学」等にしろ、人間はどうしてこれらの能力を獲得できたのか。神から選ばれた“優等生物”だったからか。ダーウィンは、それを全面的に否定するのです。
『旧約聖書』の「創世記」によれば、神は7日で世界を創造したことになっています。1日目に光と闇を、2日目に空を、3日目に大地と海と植物を、4日目に太陽と月と星を、5日目に魚と鳥を、そして6日目に獣と家畜を作り、神に似たヒトを作りました。7日目は休みです。
ダーウィンはこれを、7日ではなく無限の時間の流れの中で行われた生存競争と自然選択の描写であると説明します。生物は、同じ種であっても変異によって無数の個体差があります。その変異の一部は親から子へ遺伝しますが、それが環境に適合する場合としない場合があります。結局、前者だけが生存・繁殖し、後者は淘汰される。地球上の生物は、それを繰り返して今日に至っているというわけです。
たとえば、同書には以下のような記述があります。
「私の想像では、カッコウのひなが義理のきょうだいを巣からおしのけるのも、アリが奴隷をつくるのも、ヒメバチ科の幼虫が生きた毛虫の体内でその体を食うのも、これらをすべて個々に付与された、あるいは本能であるとみなすのではなくて、あらゆる生物を増殖させ、変異させ、強者を生かし弱者を死なしめてその進歩にみちびく一般法則の小さな結果であるとみなすほうが、はるかに満足できるものである」(『種の起原』八杉龍一訳、岩波文庫)
だとすれば、人間も無数の生存競争と自然選択の末に今日に至っているにすぎません。ポイントは「自ら正しい選択をしてきた」ということではなく、「多様な選択をする種の中から、たまたま時々の環境に適合する種が残り、人間に進化した」ということです。
これを有史以降の人類の歴史になぞらえるなら、まさに戦争や階級闘争という生存競争の繰り返しでした。おそらく無数の人々がそれを教訓として、適合するための道を模索し、よりよく生きるための知恵を記録してきました。それが「哲学」「宗教」「芸術」「サイエンス」などでしょう。
これらも多くは淘汰されましたが、中には時々の社会に適合し、どうやら真理を突いているらしいとして後世に残されたものがある。それが、ここまで述べてきたリベラルアーツです。だからこそ「人類の叡智の結晶」と呼ばれるわけです。
プラトンやアリストテレスをはじめ、それぞれの書き手・作り手が大賢人であることは間違いありません。しかしその背景には、淘汰された無数の書き手・作り手がいたはずです。その多様性の中より選択されたからこそ、リベラルアーツには価値がある。
リベラルアーツを学ぶとは、人類の歴史と共に進化し磨かれた「知のDNA」あるいは「人間性の魂」を継承することにほかならないでしょう。ダーウィンの「進化論」からそういうメッセージを受け取ることができるのです。
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