「絶対安全」が好きすぎる日本人に伝えたい盲点 ISOやHACCPが世界の主流になった納得の理由
安全度ということでいえば、火力発電はもちろん風力や水力ですら危険はある。火力発電からは二酸化炭素が当然出るし、微量だが発がん性物質も出ている。風力発電の風車の羽根が折れて飛散したとか、ヘリコプターが接触したといった事故も、実は結構多い。低周波による健康被害もある。
発電所関連の被害ということなら水力がダントツだ。1975年の中国でのダム連鎖決壊事故では、直接の被害で数万人が死亡、その後数十万人が食糧問題や感染症により死亡したとされる。
世に絶対安全がない以上、やるかやらないか、どこまでコストをかけるかということは、事故想定確率とその被害額を掛けた値と、社会的なものまで含めた経済の天秤によるしかない。
「絶対に正しい」という楽な判断はない
最近よく言われるSDGs(持続可能な開発目標)に関しても、17ある目標同士の多くがあちらを立てればこちらが立たずになっているという矛盾が指摘されている。今困窮している多くの人々の生活の改善は、どうしても地球環境に多大な負荷を与えるからだ。
特定の目的だけを正しいとして目指すのでなく、「危険な地球環境の悪化」と「危険な困窮」のどちらにも陥らないように、すべての目標を「程度の問題」として俯瞰し、全体のバランスを取ることのみを目標として目指すという「リジェネレーティブ」とか「ドーナツ経済」といった考え方が、SDGsへの反省の上で語られるようになってきたのもそのためだ。
「絶対正しい」という楽な判断はないからこそ、政治家や専門家に任せっきりにするのではなく、皆が自分で判断する姿勢が大切になる。それには当然、科学技術的な教養が必要になる。そのための知識が容易に得られるようになったのも、今の時代だ。「ベクレル」や「シーベルト」といった専門用語が飛び交っても、わからないことがあったらインターネットを使って自分でいくらでも調べられるのだ。
そして、なぜ皆が判断に参加すべきかというと、国民みんなで判断したら正しい判断ができるからではない。どんなに精査しても「絶対正しい判断」というのはできない。だから誰か「偉い人」に任せればいいということでなく、皆での判断なら、その結果が悪くても自ら決めたこととして皆で甘受するしかない――そういう諦観が民主主義の本質にある。
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