10年前の「反復」がもたらした日本のコロナ危機 「中止だ中止」と言えない主権者と無責任の体系
危機を適切に認知できない人々には、同時に責任感もモラルもない。ただひたすら空っぽである人たちからなる集団が、この国の「選良」として君臨してきた挙句に、あの事故を起こした。なぜ、日本はこんな国でしかないのか、こんな社会でしかないのか。
その根源を見定めようとするならば、「あの戦争(第2次世界大戦)の未処理」という問題にまで遡らなければならないという確信に基づいて、私は『永続敗戦論』を書いた。あの事故における東電幹部や経産省関係者(原子力安全・保安院)、さらには「原子力ムラ」の御用学者たちの姿は、丸山眞男が昭和のファッショ体制を指して述べた「無責任の体系」そのものであったからだった。
だから、福島第一原発の事故は、未曾有の経験であったのと同時に、見慣れたものでもあった。つまるところ、3.11が暴いたのは、「戦後日本はあの戦争への後悔と反省に立って築かれてきた」という公式史観の虚偽性だった。私たちの社会が本当に後悔・反省しているのなら、「無責任の体系」は克服されていなければならない。
しかし現実には、それは社会のど真ん中で生き延びてきたことを3.11は明らかにした。ならば、なぜかくも無反省でいられるのか。その根源的な理由は、日本人が本当はあの戦争で敗北したことを認めていないというところにあることを私は『永続敗戦論』で主張し、かかる歴史意識を「敗戦の否認」と名づけた。
歴史観や歴史意識は、その社会の質に関わり、ひいては私たちの生き死にに関わる。3.11が突きつけたのは、私たちの社会は解体的な出直しを必要としているという事実にほかならなかった。最近やたらと増えている分断批判業者の連中は認めたがらないようだが、この時以来、日本社会は真二つに分裂した。それは、この事実を受け止める人々と何としてでも受け止めない(否認する)人々との分裂である。
どちらが多数派であるかは言うまでもない。ちょうど『永続敗戦論』の原稿を書いていた2012年12月の総選挙で第2次安倍晋三政権が成立し、そこで出来上がった権力構造が現在にまで続いていることは、まさにこの「敗戦の否認」という歴史意識から日本人全般が脱していないばかりか、そのなかにさらに深くはまり込んでいることの証明である。というのも、安倍晋三こそ、政治の世界で「敗戦の否認」の情念を代表する人物にほかならないからだ。
ゆえに、この期間が日本史上の汚点と目すべき無惨な時代となったのは、あまりにも当然の事柄である。虚しい歴史意識は、社会を劣化させ、究極的にはその社会を殺し、場合によってはそこに生きる人間を物理的に殺す。
3.11の反復としての新型コロナ危機
そして、まさにそのような「場合」にいま私たちは立ち会っている。言うまでもなく、新型コロナウイルスによる危機のことである。
この1年間展開してきた光景は、10年前の光景の再上演のようなものだ。すべてが後手後手であり遅い。根拠なき楽観主義による事態の過小評価。政治に忖度する専門家という名の御用学者。懸命に踏ん張る現場と無能な司令官。「新型コロナウイルス感染症を克服した証しとしての東京五輪開催」(菅義偉首相)とやらは、福島第一原発の事故後に原子力ムラがぶち上げた「世界一安全な日本の原発」を世界中に輸出するという空理空論の反復である。無論、これらの末期症状は、破滅の瀬戸際に追い詰められてもそれをも否認してきた私たちが必然的に招き寄せたものにほかならない。
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