一方、大蔵卿を務めていた大久保利通のことは厳しくこき下ろしている。
「財政の実務に詳しくないどころか、その根本原理さえわかっていない」
渋沢にとって大久保は17歳も年上だったが、「私が嫌いだった人」とはっきり言っており、同時に「私もひどく大久保侯から嫌われた」と書き残している。いったい、2人の間に何があったというのだろうか。
渋沢が大久保と対立したのは、陸軍と海軍の歳費についてである。政府で「陸軍省の歳費額を800万円に、海軍省の歳費額を250万円にする」という提議がなされると、大久保は「やむをえずこれに同意しなければならない」とし、周囲のイエスマンもみな賛同していた。
だが、当時、大丞という職にいた渋沢が待ったをかけている。
「いま政府が軽々しく各省の年間予算を決めるのは、はなはだ不適切なことと存じます」
渋沢としては、年間予算を決めること自体は、むしろ望んでいたこと。ただし、全国の歳入額がまだまったくわかっていなかった。それをできるだけ明確にしてから、予算を各省に振り分けなければならないと、渋沢は大久保に主張した。
スピード感を重視した大久保が詰問
渋沢の言い分はもっとものように思うが、なにぶん、明治新政府はスタートして間もない。そんな理想論では何も物事は進まないと、スピード感を重視する大久保はおそらく考えたのだろう。渋沢をこんなふうに詰問している。
「それならば歳入の統計が明瞭になるまでは、陸海軍へは経費を支給しないという考えなのか」
こうして極論に持ち込んで、相手を追い詰めるのもまた大久保らしい。もちろん、渋沢としても、そこまでのことは望んではいない。陸海軍がなければ国を維持できないこともわかっている。けれども、歳入統計がまったくできていない時点で、巨額な年間予算を決めるのは危険なのではないか、と言っているにすぎない。
だが、大久保にしてみれば、渋沢の意見は具体性に欠けると感じたのではないだろうか。「ならば、いつならばよいというのか」「いくらまでの予算ならよいのか」と事を急いてしまう。いつでも一歩でも前進しておきたい大久保と、どんなときも筋はきちんと通したい渋沢とでは、方針が合わなかったのである。
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