人々を今も熱狂させる「地獄に落ちた男」の演説 ダンテの日だから語りたい「神曲」の名場面

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「地獄篇」の最後あたりに出てくる場面なので、高校1年生がそれに出くわすのは、もうすぐ夏休みになろうとしている時期である。ポカポカと暖かい教室の中で、「Fatti non foste……」という文章が読み上げられると、妙なざわめきが湧き起こり、どんな不勉強な生徒でも、教科書のその部分に鉛筆で線を引く。世界に出たくてしょうがない、とじれったく思っている多感な年ごろなだけに、まさに自分に向けられた言葉だとみんな錯覚する。

そして、オデュッセウスのスピーチに触発されるのは、エネルギーと夢が有り余る若者ばかりではない。

2006年にトリノで開催された冬季オリンピックの開幕式でそのくだりが朗読され、参加するアスリートへの激励の言葉として使用されたが、観客が深く感動し、各種メディアもこの引用を絶賛した。

著作権はもはや問題にならないということもあり、テレビCMやポスターにもたびたび起用され、文学のシンポジウムのチラシだろうが、コーヒーの新味の宣伝だろうが、分脈はさておき、使われるたびになかなかのインパクトを残し、間違いなく抜群な効果を発揮する。

ダンテ先生の「思うがまま」になっている

引用する人たちは、それが詭弁とも言える演説の一部であることはもちろんわかっている。オデュッセウスは罪人であり、地獄に落とされたことも知っている。重々承知しているが……それでもなお、命がけで知識を得ようとする英雄はやはり誰よりもかっこよくて、彼の姿を、進化を遂げてきた人間の理想像と無性に重ね合わせたくなるのだ。

そこまで魅了されてしまうのも無理もない。なぜかというと、それはまさにダンテが狙っていた結果だからだ。励まされて、鼓舞された部下と同じように、私たちもオデュッセウスの口車に乗って、まんまと欺かれている。

その見事な演説を書くことによって、ダンテ先生は読者を実験台にして、謀略者が起こした罪はどれだけおそろしいかを実践してみせている。しかし、ため息が出るほどの美文だからこそ、われわれ人間は、700年ものの間に、その悪巧みを暴くことを放置して、思わぬ陥穽(かんせい)に、愚かにもはまり続けているのである。

ダンテ先生ご本人の自己評価が正しければ、彼は今煉獄の第一冠、高慢者が集まっているところにいるはずだ。煉獄の山から地球を見下ろして、「まだ信じているのか、あいつの言葉を!」とでも呟きながら自らの話術の力を再認識し、さぞ喜んでいるに違いない。そして、今日も人間が新たな夢をおいかけて、ヘラクレスの門に向かっているのを眺めながら、先生は内心安堵して、今後もわれわれの冒険を見守り続けてくれるだろう。

イザベラ・ディオニシオ 翻訳家

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Isabella Dionisio

イタリア出身。大学時代より日本文学に親しみ、2005年に来日。お茶の水女子大学大学院修士課程(比較社会文化学日本語日本文学コース)を修了後、イタリア語・英語翻訳者および翻訳コーディネーターとして活躍中。趣味はごろごろしながら本を読むこと、サルサを踊ること。近著に『悩んでもがいて、作家になった彼女たち』。

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