「ナショナリズム」が「自由と民主主義」を守る訳 不寛容なリベラリズム、多様性を尊ぶ国民国家

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では、そもそも、人間は、なぜ、あるいはどのようにして「集団」を形成し、所属するのか。これが「政治秩序の哲学」の出発点となる。

「政治秩序の哲学」は、人間というものは、その本性からして、集団を形成し所属する存在であるという現実を直視し、そのゆえんを探究する。その探究は、いわば社会学や社会人類学のような社会科学的な性格を帯びるだろうし、歴史学的な知見も参照されるだろう。

ここで重要なのは、「政治秩序の哲学」が問うのは、「人間はどうあるべきか」という「理想」ではなく、人間はどういうものかという「現実」だということである。

「政治秩序の哲学」はリアリズムだと言うこともできる。これに対して、「政府の哲学」は、「最良の統治形態とは何か」という「理想」を探究する。リベラリズムは、理想を追求する「政府の哲学」である。

そして、リアリズムが明らかにするのは、政治秩序は自律した個人の合意によって成立するものでないということである。

たとえば、国家の領土の範囲は、征服や政治的妥協など、歴史的な経緯によって決まったものにすぎず、リベラリズムによって正当化されるようなものではない。だが、国境を、自律的な個人の合意や民主的手続きなど、リベラリズムによって正当化される方法で引き直すなどということが、非現実的であることは言うまでもない。

政治秩序とは、本質的に、非リベラルなのである。しかし、すべてのリベラルな統治形態は、非リベラルな政治秩序を基礎としている。そして、そのリベラルな統治形態を成立させる非リベラルな政治秩序こそ、ハゾニーが擁護する「国民国家」にほかならない。

「リベラリズム」と「保守主義」は対立する思想ではない

ここで重要なのは、ハゾニーのリベラリズム批判の視角である。

本書のなかでハゾニーは、確かにリベラリズムを批判しているが、リベラリズムそのものを否定しているわけではない。そのことを理解するためにこそ、「政府の哲学」と「政治秩序の哲学」の区分が重要になる。

ハゾニーは、「政府の哲学」としてのリベラリズムについては、必ずしも否定はしていない。そうではなくて、リベラルな統治形態を成立させる前提である政治秩序は、リベラリズムでは説明できないと言っているのである。

リベラルな統治形態は政治秩序を基礎にしているのであって、政治秩序がリベラルな統治形態を基礎にしているのではない。だから、リベラリズムは、「政府の哲学」でありえても、「政治秩序の哲学」ではありえない。

なお、ハゾニーは保守主義者でもあるが、保守主義もまた、「政治秩序の哲学」である。「リベラル派」対「保守派」という通俗的な分類に見られるように、リベラリズムと保守主義は対立する思想とみなされている。

しかし、政治哲学的な観点から言えば、両者は対立するものというよりは、むしろ、カテゴリーが違うものなのである。すなわち、リベラリズムは「政府の哲学」であり、保守主義は「政治秩序の哲学」なのだ。

読者にとくに注意を促したいのは、ハゾニーが批判的なのは、リベラリズムそれ自体というよりは、リベラリズムを「政治秩序の哲学」に適用することだということである。もっと言えば、ハゾニーは、リベラルな統治形態を尊重しているからこそ、そのリベラルな統治形態の基礎にある「国民国家」という非リベラルな政治秩序というものを重視しているのだ。

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