「ナショナリズム」が「自由と民主主義」を守る訳 不寛容なリベラリズム、多様性を尊ぶ国民国家
言うまでもなく、アメリカの政治思想の変化は、わが国に大きな影響を及ぼす。そのアメリカの政治思想の変化に、本書が連動しているのであるならば、それだけでも、われわれ日本人が本書を読むべき理由としては十分である。
「政府の哲学」と「政治秩序の哲学」
ただし、本書の重要性は、もっと深いところにある。
著者のハゾニーは、その立論を古代ユダヤの思想や聖書のなかから導き出しており、さらに自身がシオニストであることを公言している。
しかし、だからといって、本書を、特定の政治的・宗教的な立場に偏した主義主張の表明にすぎないとみなすのは適切ではない。というのも、本書で展開されている政治哲学は、人間や社会秩序に関する真理にまで及んでおり、その深い洞察は普遍性を帯びていると言えるからだ。
たとえば、本書第8章において、ハゾニーは政治哲学を「政府の哲学」と「政治秩序の哲学」に区分する。実は、この区分が、きわめて重要なのである。
「政府の哲学」とは、内部が統合されて安定した独立国家を前提とし、その下で、政府の最良の形態とは何かを究明しようとする政治哲学である。たとえば、基本的人権、とくに自由が保障された統治形態を理想とするリベラリズムは、「政府の哲学」である。
しかし、この「政府の哲学」は、あくまでも、結束して独立した国家の存在を前提としたうえで成立しうる政治哲学である。言い換えれば、結束して独立した国家はいかにして可能かという、より根源的な問いに対して、「政府の哲学」は適切な答えを出すことができないのである。
たとえば、リベラリズムが最良の統治形態とみなす民主政治を考えてみよう。
民主政治とは何であろうか。それを子どもに聞けば、「みんなで話し合って物事を決める政治」だと答えるだろう。確かに、そのとおりだ。しかし、子どもでもわかる簡単な問題だなどと片付けてはならない。というのも、政治には、どうしても話し合いでは決められない物事というものがあるからだ。
それは、「みんな」の範囲である。
「みんなで話し合って物事を決める政治」においては、「みんな」に含まれるのが誰かが決まらなければ、話し合いは始まらない。だから、「みんな」に誰が含まれ、誰が含まれないのかを、「みんな」で話し合って決めることはできないのだ。
「みんな」の範囲が決まっていることは、民主政治の前提なのであって、したがって、民主的には決められない。ということは、「みんな」の範囲は、非民主的なやり方で決めるしかないということになる。
「政府の哲学」は、「みんな」の範囲がどう決まるのかについて答えられない。これに対して、「みんな」の範囲を探究する政治哲学に該当するのが、「政治秩序の哲学」なのである。
「みんな」とは、要するに「集団」のことである。人間は、家族、氏族、地域共同体、クラブ、組合、企業、宗教、そして国家など、何らかの集団に所属することで存在しうる。その集団のうち、「国家」は政治秩序である。なかでも「国民国家」は、「国民」という集団を基礎にした政治秩序(=国家)である。
したがって、「政治秩序の哲学」は、国家(現代であれば国民国家)を探究の目的とする政治哲学だと言うことができる。
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