震災10年「使命果たせなかった放送局」後悔と今 データから浮かび上がる災害報道に必要なこと

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報道センターにたどり着くと、再放送中の「3年B組金八先生」を中断して緊急放送が始まっていた。東北地方に大津波警報が出されたにもかかわらず、アナウンサーが震度情報に気をとられていたので、大声で「津波!」と叫んだのを今でも覚えている。

その直後から報道スタジオで解説者として出演し、余震による緊急地震速報が鳴り響くなか、地震のメカニズムや余震への警戒、津波からの避難を呼びかけた。だがあのとき、もっと強く避難を呼びかけていれば助かった命もあったのではないか、という忸怩たる思いが今でもある。

地震発生から津波の来襲までには約30分以上の時間的余裕があり、避難するには十分な時間があった。「住民の多くは避難している」という思い込みがあり、岸壁を乗り越えて襲う津波や、川を遡上して町に流れ込む津波を画面越しに見ても、淡々とその様子を伝えているだけだった。

結果として、1万8000人を超える死者・行方不明者を出す大災害となってしまったことに、悔やんでも悔やみきれない自分がいる。あの日、テレビカメラの前で避難を呼びかけたすべての放送人が同じ思いを抱いたことだろう。

初期の震災報道におけるもう一つの誤算は、NHKを除く民放各社が取材用ヘリを失ってしまったことだろう。仙台に本社を置く放送局は、太平洋に面した仙台空港にヘリを常駐させている。その仙台空港が津波にのまれ、滑走路が使用できなくなった。そればかりでなく、各社の取材ヘリも津波で流されてしまったのである。

辛うじて飛び上がったNHKのヘリが、仙台平野に襲いかかる津波を生中継で捉えた映像を目の当たりにして、TBS系列のヘリが稼働できないことへのいら立ちよりも、この未曾有の状況を最も有効な報道手段であるヘリで伝えられないことに無念の思いがした。

原発事故で逃げ出したメディア

2011年3月27日、あるメッセージがユーチューブにアップされた。第一原発事故で屋内退避区域となっている福島県南相馬市の桜井勝延市長(当時)からの訴えである。そこには、屋内退避で救援の手が差し伸べられていない現状とともに、メディアが逃げ出し、誰もそのことを伝えてくれないことが述べられていた。

第一原発事故が発生し、翌3月12日に1号機が水素爆発した日を境に、放送や新聞などのメディアは一斉に福島県の浜通りから逃げ出した。ある局は、南相馬市の病院の屋上から中継していたのを、本社から「第一原発が危ないから本社に戻れ」と指示を受け、病院関係者や住民などには何も告げずに現場を後にした。

その後、国が第一原発から半径20kmを避難指示区域に指定すると、ほとんどのメディアは、その倍の40kmを取材制限区域にして、被災住民や避難の様子の取材を直接行うことはほとんどなかった。

福島中央テレビの佐藤崇報道制作局長(当時)は、「私たちは県民を見捨てた。寄り添えなかったという負い目を負った」(*4)と総括している。また、テレビユー福島の藤間寿朗報道部長(当時)は「原発があるエリアの放送局なのに安全神話が染みついていた」と述べている。こうした思いは、福島を放送エリアとする各局が一様に抱いたものだった。

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