もう一度監督をやろうと思った理由
――木村監督が『劒岳 点の記』で監督をやろうと思ったのは、周りに年下の監督が多くなって、カメラマンとして呼ばれることも少なくなるだろうからだ、というようなことを以前、おっしゃっていましたが、そのときは「ただ1度の監督だ」ともおっしゃっていました。
『劒岳 点の記』が出来上がったら、もう日本映画界とはおさらばだって言っていました。実際、映画が終わった後は、俺の人となりや映画作りなんかについて話をしてくれという依頼があったので、講演で日本各地を回っていた。でも、そのうち講演の依頼もだんだん来なくなったので、しまいには「俺、どうやって食べていこう」と思うようになった。そのときに考えたのは、俺はやっぱり映画が大好きで、俺の人生は映画と共にあるけれども、でも、その前に生きていかなきゃいけないんだと。「武士は食わねど高ようじ」ばかりはやっていられない。そう思ったときに、企画から監督から、何もかも全部やって、それが通れば自分の仕事ができるんじゃないかと思ったわけ。結局、今さらほかの仕事もできないからね。しだいにもう1本やりたいなと思うようになったというわけ。
――そこで、この『春を背負って』を作ろうという話になるわけですね。
だから東京で完成報告会見が行われたときには謝りました。みんな笑っていたけどね。まあ許してくれたよ。
講演会をしていたときにも「もうこれでやらないよ」なんて言ったら、みんなから「そんなこと言わないで、やったらどうですか」と言われてね。これはいちばんの笑い話なんだけど、中小企業の社長さん相手に講演をやったときに「人生、徒労の連続だよ」とぶちまけたんだ。要するに徒労と思ったことをやらないと、その先は何もないぞということを言いたかった。「能率、効率と考えて、ヒュッと行くなんてことは、ありえない。徒労というか、無駄な骨折りと思っても、そこへ突っ込んでいく勇気を持て。そうすれば何か出てくる可能性がある!」とか言ってね。けっこうみんな感動していたよ。そうしたら、それからしばらくして、その中のひとりから手紙が来たんですよ。次回作の『徒労』を早くやってくださいってね(笑)。
どこの講演会でも、「もうやんねえよ」と言っていたんだけど、「そんなこと言わずにやってください。山の映画をやる人なんて木村監督しかいないから」とか言われる。そうすると「あれだけ言われるんだから。ま、いいか」という気持ちにもなるわけでね。自家用車を使って47都道府県を宣伝に回るのも、これをなんとかヒットさせようという気持ちがあるから。それはやっぱり映画をもう1本やりたいという気持ちの表れなんだよ。
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