新大久保を書き尽くす46歳ライターの快活人生 バックパッカーはタイを経て日本に戻ってきた

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タイは日本のテレビや新聞のアジア支局の一大拠点だった。日本人が非常に多く住み、現地の日本人コミュニティーも発展している。

現地の日本人向けに発行している、新聞、フリーペーパーなどもたくさんあった。旅行の際にできた、友人知人もたくさんいた。

「タイならライターとして食っていけるだろう、という目算がありました。辞めると言っても、編集部の人たちからはとくに何も言われませんでしたね。次から次に人が入っては辞めていく環境でしたから、1人辞めたからってかまってるヒマはなかったと思います。

ただ最後に編集部の人が、沢木耕太郎さんに会わせてくれました」

沢木耕太郎さんは、室橋さんが海外旅行にハマるきっかけになった人だ。素直にとてもうれしかった。

高そうなレストランに連れて行ってもらい、ワインをごちそうになった。冷えていたワインの瓶には水滴がついていた。

「沢木さんは水滴がついたワインのラベルをくるくるっとはがして、その裏にサインを書いてくれました。

『なんてきざな!! 女ならほれている!!』

と思いました。最高の思い出です。今でもそのときのサインは、もちろんちゃんと保存してあります」

沢木さんに

「タイに行くなら、頑張れよ!!」

と応援してもらい、30歳の室橋さんはタイへ出発した。

「お金はたまってましたし、とにかく疲れていたので、1年間は無職を満喫しました」

住環境は東京よりもはるかによかった

最初はゲストハウスに泊まっていたが、すぐにアパートに引っ越した。

日本人なら、パスポートさえあれば簡単にアパートは借りられた。

「タイの家賃はピンきりですけど、僕が借りていたアパートは6000バーツ(約2万円)でした。駅から5分で50平米のワンルーム。カーテン、冷蔵庫、テレビなどの家具は全部備え付けで、お願いすれば掃除洗濯全部やってくれました。小さいですけどプールもついていました。住環境は東京よりも、はるかによかったですね」

南国の空気の中、1人暮らしを始めた。海外とはいえ、日本人は多いし、日本食のレストランも多く気楽だった。

無職ではあったが、タイ語の学校へ通い読み書きの勉強はしていた。

また、タイで事件があったときなどは、週刊文春から取材や記事執筆の依頼があった。

またタイの日本人向けに発行されていた雑誌『Gダイアリー』でも執筆していた。そのためまったくの無収入というわけではなかった。

「1年経ったら、無職にも飽きてきました。もともと貧乏性だし、お金がなくなるまで無職を満喫できるほど器が大きくなかったんですね(笑)」

室橋さんはある日『Gダイアリー』の編集部から、「1人辞めるのだが、誰か適任者はいないか?」と尋ねられた。室橋さんは、

「オレでどうですか?」

と提案してみると、あっさりOKだった。

「タイ国内でビザがうるさくなってきていたのも就職した理由のひとつでした。それまでは観光ビザとノービザを繰り返していたんです。ビザが切れそうになるといったんカンボジアに出国して、そしてまたタイに入国すると滞在許可がもらえました」

ただ、このやり方でタイに滞在する不良外国人が増えたため、規制されることになった。

次ページ就業用ビザを取得し、堂々とタイで暮らすように
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