新大久保を書き尽くす46歳ライターの快活人生 バックパッカーはタイを経て日本に戻ってきた

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室橋さんは頼まれれば、旅関連以外の原稿も書いた。ある日、記事を寄稿していたアダルト系雑誌の編集長に、

「『週刊文春』に知り合いがいるから、会ってみるか?」

と言われた。

室橋さんとしては、どうせ相手にはしてもらえないだろうけど、企画の1つでも通ったらめっけもんだなと思い、会うことにした。

恐ろしく広い応接室で待っていると、グラビア班のデスクだという女性が現れた。

「こわそうな女性で、ビビりながら話してたんですけど、急に、

『あんた、うちにこない?』

って誘われました。びっくりしましたね。後から聞くと『28歳と若かったし、海外にバンバン行ってて体力もありあまってるみたいだから、きつい現場も耐えられるだろう』と思ったらしいです」

室橋さんには編集部に席が与えられ、週に1回の企画会議にも参加できることになった。基本給をもらえ、自分で記事を書いた場合は別途原稿料が支払われた。取材をする際の経費も、かなり自由に使うことができた。

「金銭面は非常によかったですね。ただ地獄のように忙しくて、お金を使うヒマは全然ありませんでした」

上司からは、

「NHKをつけっぱなしで寝て、ニュース速報が入ったらその音で起きられるようにしろ」

と指示された。そしていざ社会で動きがあったら、すぐに出動して取材した。

事件、事故、災害、芸能、グルメ……とさまざまな記事を書く、非常に忙しい日々だった。時には、社会に大きな影響を与えた有名な事件をすっぱ抜いたこともあった。

「取材対象の部屋の写真を隠し撮るときなんかは、部屋を狙える位置にある駐車場を借り上げちゃうんです。契約している人に電話して『お金出すから、貸してくれ』ってお願いするんですね。

そしてそこからは自動車の中にこもって、相棒と代わる代わる望遠鏡をのぞきながら1週間くらい張り込みをします。なかなかキツかったですね。

そして周りにいるジャーナリストは非常に優秀でした。そういう人たちと一緒に仕事ができるのはとてもうれしかったですが、同時につねにコンプレックスを感じていました。自分1人で事件記事をものにできないのが、もどかしかったです」

週刊文春の記者として2年間頑張ったが、耐えきれず辞めることにした。

「本当にきつくって、あらゆるものから逃げたくなっていました。記事を書くこと自体、嫌になっていました。いったん、ちょっと休まないと、身も心ももたないなと思いました」

タイに渡ってタイ在住の記者に

ただ、週刊文春は名のある出版社である。異例の高待遇で入れてくれたのに、「疲れたから」という理由で辞めるのは気が引けた。

「何か言い訳が必要だなと思いました。それで僕は、

『タイに行って、タイ在住の記者になります』

と言って、辞めました」

そうして週刊文春の記者を辞した室橋さんは、本当にタイに移住することにした。

ただ、まったくの無計画でタイ行きを決めたわけではなかった。

「前々から人生で1度は海外に住んでみたいと思っていました。タイは何度も旅行している国で、狙いをつけていました」

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