「日記を83年書き続けた女性」の波瀾万丈人生 火の海から逃げた鹿児島大空襲の夜

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昭和、平成、令和と3つの時代にわたって日記を書き続けた吉峯睦子さん。日記を83年間書き続けた彼女が気づいた「書くことの意味」とは? (写真提供:著者撮影)

95歳の吉峯睦子(よしみね・むつこ)さんと知り合った。それは今年の8月で、終戦記念日の翌週だった。ちょうど、戦争体験を書いた記事が新聞に掲載されたらしく、その切り抜きを見せてくれたのだ。平和への願いと、庭先に落ちる桜の葉を通して「命への感謝」を書いた文章だった。95歳の女性の書く「命」の重さが胸に迫った。聞けば、文章を書くことをずっと続けているのだという。

大正、昭和、平成、令和にまたがる95年の人生。どれだけのことを睦子さんは見て書いてきたのだろうか。睦子さんのことが忘れられず、後日改めて「今までの人生のお話を聞かせてください」とお願いして話を聞きに通うことにした。

教科書から英語が消えていく

睦子さんは1926(大正15)年、鹿児島市で海江田家の次女として生まれる。古くから米問屋を営み、鹿児島の長者番付に名前を連ねる旧家だった。

「米を保管する大きな蔵がいくつもあって、子どもの頃はその中で遊んだりしました。武家出身の母の元には、花嫁修業を兼ねて働きに来ている女性がつねに5~6人いて。私も母には礼儀作法を厳しく教え込まれました」

母と弟2人と。右から2番目が睦子さん(写真提供:吉峯睦子さん)

小学校卒業後は、鹿児島第二高等女学校(以下、第二高女)へ進学。

「第二高女では『心の鏡』っていうすてきなノートをくださって、毎日日記を書いて提出しました。すると、先生が褒めたり批評したりと赤ペンでコメントをして返してくださるの」

これがその後もずっと続いていく日記習慣の始まりだ。

しかし、戦況が厳しくなるにつれて勉強もままならなくなる。まずは、教科書から「敵性語」である英語が消えていく。

「音楽のドレミファソラシドは“はにほへといろは”、ベースボールは“野球”になりました。私はABCを覚えられたけど、下の学年はローマ字まで勉強できませんでしたね」

さらに、学徒動員で学生たちも「報国隊」として手伝いに駆り出される。睦子さんは南九州最大の軍事企業・田辺航空工業で飛行機部品の図面を書く作業を担当した。現在、田辺航空工業はすでになく、跡地が鹿児島南高等学校になっている。

「前を通ると今でも鮮明に思い出して胸がいっぱいになります。当時は5000人くらいの人が勤めていました」

だんだんと工場には材料すら入ってこなくなり、空襲警報を受けては防空壕に避難するばかりの日々。

「みんな漠然と不安を抱えていたかもしれません。でもそれを言いだす人は誰もいませんでした。私はすっかり『軍国少女』で、お国のために尽くさなくてはと必死でした」

次ページ時には憲兵に銃を突きつけられたことも
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