「日記を83年書き続けた女性」の波瀾万丈人生 火の海から逃げた鹿児島大空襲の夜
1973(昭和48)年のオイルショックでガソリンスタンドの営業時間が規制されるようになり、深夜営業から解放されて救われる思いだったという。
思いは言葉に託して、振り返ると愛おしい日々
家業を娘の慶子さんが継いで現在は隠居生活。共に鹿児島大空襲の夜を生き抜いた幸一さんとは、結婚74年目を迎えた。穏やかな暮らしの中で、ふと過ぎ去った日々を振り返ってみる。
借金を抱えて質素倹約の生活に奮闘したことや、深夜の給油ですっかり冷え込んだ手足を夫に暖めてもらった夜、懸命に忙しく働いたあの日々がかけがえのない貴重なものに思われて、たまらなく愛おしいのだという。
浮き沈みの激しい人生で、睦子さんを支えてきたのは文章を書くことだ。もしかしたら、それは支えというよりも、やらないと気持ちが落ち着かない、身に沁みついた生活習慣といったほうが的確かもしれない。12歳の女学校入学時から始めた日記は、以来1日も休むことなく83年間続けている。
「書かないと1日が済んだ気がしません。疲れて寝てしまっても、慌てて起きて書きます」
鹿児島大空襲の日のことでさえ、日記帳に「23:30夜間大空襲鹿児島市街灰燼に帰す」と1行記録を残している。それ以前の日記はすべて空襲で燃えてしまった。
娘の慶子さんは「台所で立ったまま日記を書いている姿を見ていました。家計簿もきちっとつけて、本当にすごいと思います」と話す。
さらに、子育てが少し落ち着いた頃に本格的に短歌を始め、思いを歌に昇華してきた。歌ノートの1冊目に、こんな文章が残されている。
「多忙な生活の中で自然の美しさに感動する豊かな気持ちを、歌を通して培ってゆきたい。悲しいとき、うれしいとき、歌日記を続けてゆけたら、すばらしいことと思う。道は遠いけれど」
何よりも、義父の喜八郎さんが「睦子さん、できましたか?」と短歌を楽しみに聞いてくれたから続けてこられたという。鷹揚な優しい性格の義父だった。
その義父も故人となり、長い人生、思えば睦子さんは家族や友人と、多くの親しい人たちを見送ってきた。数々の短歌を、愛しい人たちをしのんで詠んだ。
“お母さんそばにいるから大丈夫 安らかなれとそれのみ祈る”
“花咲きて花散る夕べ陽はのぼり 陽は又沈む定めなき世に”
「今夜が峠でしょう」と言われた母の看病は、静かな寝息を立てる母の傍らで、湧き上がる思いを短歌に託した。短歌に支えられたあの夜は、一生忘れられないのだという。
最近、ひ孫が作った初の短歌がすごく心に響いたそうだ。
「今も紛争が続いている国はあります。私が経験した頃よりも兵器は何十倍も進んでいるし、戦争は絶対にだめだと思います。素直な心で作ったひ孫の短歌が、こんなふうに心に響くのかと驚きました。初めての短歌とは思えません。義父が私を褒めて励まし続けてくれたようにしていけたらと思います。短歌ができたときはまた聞かせてねと伝えました」
睦子さんの日記帳も、歌ノートも、これからも変わらずページを重ねていく。それはひとりの女性が大正、昭和、平成、令和と4つの時代を懸命に軽やかに駆け抜けた証しだ。
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