「日記を83年書き続けた女性」の波瀾万丈人生 火の海から逃げた鹿児島大空襲の夜

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当時、睦子さんの2歳下の弟・順三郎さんの家庭教師として海江田家に出入りしていたのが現在の夫の吉峯幸一(よしみね・こういち)さんだ。実直な性格の幸一さんを睦子さんの母がすっかり気に入って縁談を進めていた。

けれどもその頃の女学生の常として若き軍人に憧れていた睦子さん、幸一さんと結婚するとは思ってもいなかったそうだ。

「友だちのお兄さんが海兵さんだと、すてきねって憧れたりしていました」

幸一さんと2人きりで出かける機会があったが、その思い出は苦々しいものだった。

女学校時代の睦子さん(写真提供:吉峯睦子さん)

「ある日、母に2人でどっか行ってらっしゃいって言われて。でも2人とも出かけるところなんてどこも知らないから、城山まで歩いていくことにしたの」

「そしたら途中で憲兵さんに見つかって、銃を突きつけられて『この非常時になんたることか!』と叱られました。もうびっくりして。だからその後は離れて歩いて一言も口をききませんでしたよ」

「火を出したら非国民」鹿児島大空襲の夜

1945(昭和20)年の3月頃から日本への空襲が激化、特攻基地のあった鹿児島への空襲もさらに激しさを増す。同年6月17日は、鹿児島市が焼け野原になった日だ。

この日は勤労隊として長崎へ行っていた弟の順三郎さんが、陸軍士官学校に通うことが決まり帰省中だった。家庭教師だった幸一さんもお祝いに駆けつけ、その夜は海江田家に滞在していた。

「みんなで楽しく夕ご飯を食べて、そろそろ寝ようとした夜11時頃にB29の爆音が響きました。まだ空襲警報も鳴っていないのに、照明弾、焼夷弾がどんどん落ちてきました。まるで昼間のように明るかったです」

灯火管制下で暗かった鹿児島の夜が、突如としてうそのような明るさに包まれた。海江田一家と幸一さんは家の防空壕に逃げ込む。いつもとはまったく違う夜におびえ、肩を寄せ合うようにして縮こまっていた。

しばらくして、浴衣姿のままだった母のために睦子さんは家にモンペを取りに戻った。そのとき、自分の部屋が焼夷弾で燃え始めているのを見つける。母にモンペを渡した後、あわてて駆け戻り消火に励んだ。

「自分の家から出火させてはいけないと、無我夢中で座布団で火を叩きました」

防空訓練のバケツリレーで教え込まれた「火を出したら非国民」の言葉だけが頭の中にあった。

「でも少しも消せなくてどんどん煙に包まれてしまいました。もうダメだと思って離れてほかの部屋へ行ったら、また焼夷弾がずらーっと落ちて火を噴いて障子まで燃え上がっていました」

このとき鹿児島を襲った米軍機は百数十機の大編隊で、1時間以上にわたって焼夷弾を投下した。焼夷弾の中には固形油が入っており、一度家屋につくと発火しやすく燃え続ける。今まで訓練してきた方法で消せるはずもなかった。

「煙に包まれて、逃げ道もわからなくなって、意識がもうろうとしてきました。こういうときって思わず『お母さん』って言葉が出てくるのね。『お母さん、お母さん』と煙の中声にならない声で叫んでいました」

次ページ「外へ出たら街中が火の海でした」
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