「日記を83年書き続けた女性」の波瀾万丈人生 火の海から逃げた鹿児島大空襲の夜
倒れる寸前になったところで、煙の向こうに幸一さんが現れた。皆で防空壕を出て外に逃げようとしていたところ、睦子さんが戻ってこないのを心配して探しに来たのだ。まだ燃えていない部屋まで睦子さんを引っ張っていき、風呂場の水をかぶせて、外まで連れ出した。
「外へ出たら街中が火の海でした。山形屋(百貨店)の窓という窓から紅蓮の炎が吹き上がっていたことが記憶に焼き付いています。あんなに怖かったことはありません」
海の方角を目指して逃げたところで、軍需部の防空壕に逃げ込んだ。
「積んである毛布にはノミがいっぱい付いていました。血に飢えたノミは、私たちが入った瞬間にものすごい勢いで襲ってきて。体中ノミだらけになって、さわるとすごくざらざらしているの。でもかゆいよりも何よりも、飛行機の音が怖くって気が気じゃなかったです」
生きている間で最も怖くて長い夜を過ごした。鹿児島の人は私たち以外みんな死んでしまった、とさえ思ったという。飛行機の音が消えて、おそるおそる外に出てみると、見たことのない鹿児島の風景が広がっていた。それは一面の焼け野原で遠く田舎まで見えるようだった。
その後、少し離れた磯地域にあった海江田家の別荘へ避難した。そこへ、幸一さんの父・喜八郎さんが訪ねてきた。息子の安否に不安を抱きながら、夜が明けるやいなや商売用のトラックに乗ってやってきたのだ。
「『幸一! 幸一!』という声が聞こえてきました。『生きていたのか』と。私たちにお重箱に詰まったおにぎりをくださいました。普通のおにぎりなんですけど、生きているうちであのおにぎりの味は忘れられません」
その後は市比野(いちひの)へ疎開し、さらなる戦局悪化に伴い山の中に移り住んだ。「旧家のお嬢様」だった睦子さんの人生は、空襲の夜を境にすっかり様変わりした。
「最低限の生活でした。弟もいるし何とか食べ物を手に入れようと、母の着物を持って農家さんへ行ってもほとんど交換できませんでした。あの頃を思えばどんな食事だって食べられさえすれば本当にありがたいです」
終戦を迎え、翌年の1946(昭和21)年4月、睦子さんは幸一さんと結婚した。
夢中で駆け抜けた戦後の日々
幸一さんの家は、1735(享保20)年から続く商家・丁子屋で、当時はみそ、しょうゆの製造販売から食料品の卸売り、石油の販売と手広く商売を営んでいた。幸一さんとの間に3男1女が生まれ、家事に、子育てに、家業の手伝いにと忙しい日々を送った。
「主人はとても優しい人で、あんまり優しいものだから人からだまされるわけですよ」
一度は経営が大きく傾いて会社が倒産した。会社更生法の対象となり借金を返すまでひたすら質素倹約に努める。とき卵を水で薄めてかさ増しするような生活だった。
取引先の人が窮状を見かねて、子どもたちをお祭りに連れて行きお土産を持たせてくれたことも。「この方たちに必ず借金を返そう」と心を強くし、その後無事に借金を返済して再スタートを切る。
経営しているガソリンスタンドでは、何かと忙しい幸一さんに代わり睦子さんは深夜の給油に奮闘した。週末ともなると、近くの海に来た釣り客が給油に来て、車のクラクションで起こされる。「近所迷惑になってはいけない」「店の信用のため」と、飛び起きて駆け付けた。
当時、給湯器はないから、深夜ガソリンや軽油の付いた手を冷たい水で洗って凍えるようだったという。氷のように冷たくなった手足を幸一さんの体にくっつけて暖をとった。
「深夜に6回も起こされる生活でした。たまに実家に帰って『今日はゆっくり眠れる』と思っても、習慣とは恐ろしいものでクラクションの音で必ず目を覚ますんですよね」
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