テクノロジーの進歩が問う「生きること」の意味 京大前総長が考える「遊動民」という生き方
新しい世界で、お互いに違うアイデアを認め合っていくようになれば、年齢というものも関係なくなっていくでしょう。
例えば、京都大学にノーベル賞受賞者が多いのは、師弟関係がほとんどないからだと僕は考えています。学生は、教員を「先生」とは呼びません。
お互いが同等で、研究に邁進している同僚だと思っていますから、妙にへりくだったりはしないのです。教授だから偉いわけではなく、新しいことを考えた人だから偉いという世界でもあるわけです。現場には、そういう切磋琢磨がなくてはなりません。
ここが、いまの日本の政治には足りませんね。なにしろ、忖度ばかり。それでは新しいことは生み出せません。そもそも、定年制度があるのは日本ぐらいです。テニュア(欧米の大学において、条件を満たした教員に与えられる終身在職権)になれば、死ぬまで仕事をしていますよ。ある年齢で、一律に定年を迎えるなんてありえないことです。
『ライフスパン』の面白いところは、シンクレア氏と若い学生、若い研究者とのやりとりがふんだんに描かれていて、その中で次々と発見が起きることです。それをシンクレア氏自身が素直に書いているのがいいですね。
不老不死が「夢物語」でなくなる世界へ
本書を読むと、「そんなに長生きしたいとは思わないよ」という意見はどうしても出るでしょう。実際、老化をテーマに議論をして、「デザイナー・ベビーや遺伝子治療が始まった。次は、不老不死が実現するのではないでしょうか」と発言すると、「いや、そういうことは絶対にありません」という否定論が、医療関係者、哲学者、社会学者からも出ます。
もっと長生きできるという可能性が出てきたとしても、そんなに生きたいとは思わないはずだ、人間はむしろ死を選ぶものだという観念ですね。そこには複雑な事情もあるでしょう。例えば、健康寿命なら長生きしてもいいけれど、病院で管につながれて延命するだけなら生きていたくない。単に寿命が延びると言っても、一長一短ありますからね。ただの夢物語として不老不死を語っているうえでは、どんなことでも言えるとも思います。
ただ、そういう可能性があるということを、現実のものとして定義できるかどうかで、インパクトが違います。どうやら実現できるかもしれないということが見えてくれば、いま否定している人々も、ガラリと意見が変わるかもしれません。
もちろん『ライフスパン』も、まだまだ研究が必要だろうと感じる部分はあります。ただ、それでも、実績を残してきた医科学者が「老化は病気だ」「情報理論で解決できるはずだ」ということを言い切った。そこが、この本が時代を画しているところです。
本当に多種多様な問題を突き付けている1冊です。ぜひ、いろんな分野の人に読んでもらって、意見を聞きたいところです。
(構成:泉美木蘭)
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