41歳で余命知った肺癌医師が遺した死への記録 2001年ブログもなかった頃にPHSで書いた日記

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同月末、自分で入院先への紹介状を書いて入院。その後、脊椎にがんの多発転移が見つかり、予想どおりに手術不能な状態にあると確定する。ここで、もう1つのやりたいことが頭に浮かんだ。この体験を伝えるホームページを作成しよう。それを人生最後の目標にしたい。

「肺癌医師のホームページ」プロジェクトはこうしてスタートした。

入院し、放射線治療と化学療法を受けながら、どじつきさんは精力的に動いた。

2001年2月8日(木)
両親に手術不能癌であることを打ち明けた。
母は当然泣いた。
父は、「葬儀や墓はどうする?」と聞いた。
さすがは我が父である。脱帽。
2001年2月9日(金)
外泊。遺影用の写真を撮る。
2001年2月11日(日)
勤務先のパソコンを片づける。
生きがいだった医師としての仕事に復帰することはもうあるまい。
寂しい。
(闘病日記より)

親族とのコミュニケーションや葬儀の準備、持ち物の整理。いまでいう終活や生前整理と呼ばれる取り組みをこなしつつ、ホームページ用のテキストをiBookで執筆し、病室でのインターネット接続に試行錯誤する。窓際ならなんとかPHS通信ができた。そのPHSをUSB接続のアダプターで接続したら、iBookのブラウザーがウェブページを表示した。2月25日のことだ。

開設間もない頃のトップページ

そして3月10日、ついに公開。すでに書きためたテキストがたくさんあり、コンテンツは充実していた。がんのタイプや余命宣告の本来の意味合いなどを丁寧に解説した「がん入門編」や、末期がん患者の心境や医療現場の現状を伝える「末期癌に関して」、若年層に向けた「10代の女性達に」「悩んでいる若者に」など、末期がん患者であり内科医であるからこそ発信できる情報を本音で綴っている。

「最後のあいさつ」は2001年3月17日にアップした

最優先は家族、そのうえでのホームページ

当時の個人サイトは自己紹介のために、電話番号や住所、家族構成など、かなり詳細に個人情報を記載するケースが珍しくなかった。どじつきさんも「プロフィール」欄で出身校や職歴などを具体的に記載している。それでも本名だけは伏せていたのは、2人の子どもたちだけには病名を知らせていなかったのが主な理由だと思われる。

もっとも優先すべきは家族であり、それが守られたうえでのホームページ作成だ。「末期癌に関して」に端的な記述がある。

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