ポピュリズムが招くニヒリズムを不可避な理由 「日本的精神」の真髄が示す希望の兆しと可能性
しかしまた、別の少しシニカルな見方をすれば、すべてのものをそれとして受けとめ、あるがままの現実を受容し、物事の意味をあまり突き詰めず、結局は、時の勢いにのり、その時々で権勢を誇るものに身を委ねる、といった実利的現実主義をもまたそこに見たくなってくる。
そしてそこには、超越的で普遍的な価値基準を持たず、逆にすべてを流れゆくものとして「無」に於いて見ようとする日本文化が作用していることも事実であろう。日本的精神の中にある脱主体化への傾きが、かえって日本の西洋型の近代化をいち早く可能としたのかもしれないし、一種の過剰適応を生み出してしまったのかもしれない。
その結果、西洋的なるものの受容といっても、それは、日本人のものの考え方や文化の根底を流れているはずの日本的思惟や日本的精神のほとんど恣意的な忘却、あるいは自発的な抑圧を伴ったものではなかったろうか。
とくに戦後におけるアメリカへの依存と追従は、あの大戦を自由や民主主義と野蛮な侵略主義の戦いであったとするアメリカの立場、そしてそれを無条件に受容した日本という歴史的構造を見ないと理解できまい。
にもかかわらず、われわれの具体的な生も思考習慣も決してすっきりと西洋的にはならない。なるはずもない。日本的なものの意図的な忘却や自己抑制はかえって、「われわれは何か大事なものを置き去りにしたのではないか」という苦い気分を呼びさます。われわれの「底」にある「何か」を探し出そうとする。
西田と漱石における西洋近代との格闘
西田幾多郎と夏目漱石は歳で3つしか違わない。ほぼ同時代人である。
だが、3つ年上の漱石を苦しめた神経症の原因のひとつは明らかにそこにあった。滔々たる勢いで押し寄せてくる西洋化の波に飲み込まれる日本が、そのことを吟味することもなく、ひたすら西洋模倣に浮かれて自分自身を喪失してしまったという彼の時代認識が、終生、彼につきまとっていた。
これは漱石に限らない。明治から昭和へかけての近代化の中を生きた日本の知識人のほぼ共通の課題であった。西洋的な文明を受け入れなければ、日本は文明国にはなれず、文明国になれなければ独立も難しい。しかしまた独立国を保つために西洋化すれば、日本的精神や伝統は失われ、実際上、独立自尊も失われてゆくだろう。このディレンマである。
西田もまた同時代人として、この日本近代のディレンマを抱え、彼なりの哲学によってこのディレンマに対抗しようとしたといってよいだろう。
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