「1600種の貝殻集めに半生捧げた男」の驚き人生 情熱かけたコレクションは作者の死後も心打つ

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鹿児島各地を転々とした古川さんが最後に勤務したのは、霧島市立大田小学校だ。山間のこの土地には、古川さんの郷里伊佐市と同じように海がない(旧霧島町。現在は市町村合併によって海に面している)。退任後、古川さんはコレクションの貝殻を約600種寄贈した。

古川さんは昭和59年4月~61年3月にかけて2年間、第24代校長を務めた(筆者撮影)

そのまま保管・展示できる標本の形で寄贈したことによって、30年以上の時を経た今でもなお貝殻は美しく保たれていた。学校では、夏休み前に自由研究の話をする際に子どもたちに見せているそうだ。

その後は鹿児島県立博物館に勤務して「鹿児島の貝展」を企画するなどしていた。博物館を辞めてからは貝の収集と研究に没頭した貝三昧の日々だったそう。このときに貝殻の標本を鹿児島県立博物館、伊佐市立湯之尾小学校、霧島市立隼人図書館、伊佐市立大口図書館など縁のあった施設へ寄贈した。

家族総出の共同作業

そして最後が、菱刈ふるさといきがいセンター2階の郷土資料館に寄贈した1600種3300個のコレクションだ。自分が半生をかけて愛でた貝殻を、これからは人に役立ててほしい、楽しんでほしい、と。

この最後の寄贈は「家族総出の共同作業」だったそう。古川さんが手書きした貝殻の一覧表を、東京にいる娘がテプラシールで打ち出して鹿児島に返送。そのシールを、姪の助けを借りながら一点一点ラベリングしていった。施設の専門指導員は「情熱と行動力とご家族の理解がないと、あそこまでできませんよ」と話す。

原田純一さんの息子である原田義壽さんは、小学生の頃大叔父である古川さんと一緒に貝殻採取に行った。そのときのことで、印象に残っていることがあった。

「標本にする貝殻の多くは生きた貝を採っていると聞きました。海岸で採集できる貝殻は死んだ後、海底や波間を漂って浜に打ち上げられたものです。だから殻の表面が傷付いたり欠けたりしてしまったものがほとんど。なので、大叔父は生きた貝を海で直接採取したり、漁師さんから網に付いたのを譲ってもらったりしてよい状態のものを集め、肉の部分を取り除き、標本を作っていたようです。さらに、その作業過程で貝殻の色が変色しないように注意していると」

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