8月15日を過ぎても戦争を続けた日本兵の末路 「帰りたくても帰れなかった」男性が語った理由
まだ、戦える――。その兵士たちの思いがほかの方向に向かわせる。折しも日本の敗戦で、宗主国のオランダが再び戻りつつあった。
「日本軍政下の統治が行われた3年半の間に、日本軍はインドネシアの若者を集めて軍事教練をして、義勇軍を作った。これを『ペタ』といった。各土地の優秀な若者を集めてな。これが日本が負けると解散になった。それで各地に帰って、オランダ軍を叩かないとならないとなった。つまり独立運動なんだ」
義勇軍を組織していたことが、インドネシア独自の独立運動を牽引していった。
「オランダ軍が入ってきたことが発火点になったんだな。『ムルデカ!』――“独立”という意味なんだけど、これが合い言葉になって、各地で通じるんだよ、そういえば」
すると、旧宗主国の再上陸に合わせて、今度は「ペタ」やインドネシア軍のほうから、日本兵を勧誘に来た。独立戦争を勝ち抜くための軍事指導が欲しい、一緒に戦ってほしいと言った。
この呼びかけに多くの日本兵が応え、独立戦争に参加していった。その数は1000人とも2000人ともされる。宮原もその1人だった。
宮原が信じ続けた「正義の戦争」
「もう帰るところがない。帰れない。それで部隊を飛び出した。残留という言葉はあてはまらない。そういう環境下に置かれたんだ。独立に賭けたんだ、明るくな!
インドネシアの独立が目的なんだから、独立しないと今度はオランダ軍に捕まって処刑される。敵が入ってきている台湾に帰っても処罰されるだけだろう。日本もアメリカに占領されて、どうなるかわからない。まして、部隊を離れては脱走兵だ。だから、もう、第2の人生をインドネシアの独立に賭けたんだ。言わば、賭けだ! 人生の!」
それは宮原自身が「正義の戦争」と信じた「植民地解放」を実践する道を歩むことと、いつしか重なっていた。
「のるか反るか、その1つだよ。そういう人生に生まれてきたんだ!」
こうして1949年12月までの戦争を戦い抜き、翌年インドネシアは公式に独立する。
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