8月15日を過ぎても戦争を続けた日本兵の末路 「帰りたくても帰れなかった」男性が語った理由

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ただ、そうなると独立戦争に賭けた日本兵たちの役割も終わり、気がつくと居場所もなくなっていた。ある者はそこから日本へ帰国し、ある者は現地での新しい生活を始めた。

宮原は家族を持ち、日本向けの輸出で事業を立ち上げ、東京から進出してきた冷凍機メーカーと会社を設立したことが転機となって、財を成した。

だが、残留日本兵の誰しもが成功したわけではなかった。ある元日本兵が貧困長屋で孤独死したことをきっかけに、互助会組織をつくることになった。1979年のことだった。「インドネシア福祉友の会」といった。

当初は300人近い名前が名簿にあった。その事務をボランティアで取り仕切っていたのが宮原だった。ただ、私がジャカルタを訪れた15年前は、10人を割っていた。

「いま生き残ってるのは、インドネシア全体で、たった9名だけだ! あとはみんな死んだ!」

そう気丈に語っていた宮原も、もうこの世にはいない。私が一人ひとりに話を聞いた9人は戦後75年のいまは、もう誰も生きてはいなかった。(当時のインタビューは拙著『帰還せず 残留日本兵 六〇年目の証言』に詳しい)

宮原の生きざまは「貧乏くじ」だったのか

宮原には中国名もあった。清の時代に、移民で台湾に渡った8代目にあたる。しかし、宮原は「そのことはあまり言いたくない!」と強く首を振った。

「日本人なんだよ! 日本人として生まれてきたんだ! アイデンティティも日本人なんだよ!」

李登輝は生前、司馬遼太郎との会談で「台湾に生まれた悲哀」という言葉を語っていた。他方、宮原は私にこう語っていた。

「はっきり言ってしまえば、貧乏くじを引いたんだ。生まれたとき、日本人として生まれてきた。日本人として教育も受け、国民の義務として、戦いに出された。戦争に負けて、環境が変わった。帰れないからインドネシア軍に参加し、独立を勝ち取った。愛国の志士として、誇りをもっている。それだけのことだ」

だが、この日本人の南方の地での生きざまは「貧乏くじ」でも「悲哀」でもない。宮原だけでなく、戦後を戦い抜いた元日本兵たちの姿がなければ、いまのインドネシアもアジアもなかったはずだ。(一部敬称略)

青沼 陽一郎 作家・ジャーナリスト

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あおぬま よういちろう / Yoichiro Aonuma

1968年長野県生まれ。早稲田大学卒業。テレビ報道、番組制作の現場にかかわったのち、独立。犯罪事件、社会事象などをテーマにルポルタージュ作品を発表。著書に、『オウム裁判傍笑記』『池袋通り魔との往復書簡』『中国食品工場の秘密』『帰還せず――残留日本兵六〇年目の証言』(いずれも小学館文庫)、『食料植民地ニッポン』(小学館)、『フクシマ カタストロフ――原発汚染と除染の真実』(文藝春秋)などがある。

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