沢木耕太郎「旅も人生も深めるなら1人がいい」 「どのような局面でも面白がることはできる」
これまでの広く豊かな経験で、彼はどこで誰に会い、どんな何を見てきたのだろう。沢木耕太郎のコミュニケーションは、端正で無駄の削ぎ落とされた、けれど柔らかい彼自身の佇まいそのものだった。
細く長身の体を穏やかに椅子へあずけた沢木は、こちらをまっすぐに見つめて「あなたのお友達が『深夜特急』を再読して『ああ、また旅をしたくなったな』って思ってくださったのなら、『深夜特急』は『深夜特急』の役割を果たしているんだろうと思います」と始める。
「紀行文はガイドブック的な役割を担うものと、旅をする心を何か刺激するものと、きっと2つに分かれるんじゃないかと思う。ガイドブックを欲しがる人にとっては、主人公が具体的にどう旅をしていったかよりも外界をどのように感じ取ったかが描かれている『深夜特急』は何の役にも立たない本だと思うんだよね。『深夜特急』が今もポツポツと読んでもらえているとすれば、読む人たちは彼が感受した世界を一緒に感じ取ったうえで、自分も旅をしてみたいと思ってくださるんでしょう」
沢木の紀行文には、彼自身が「たぶん」と控えめに徹して語る通り「旅に出たいと思わせる力」がある。新著『旅のつばくろ』は、JR東日本の車内誌『トランヴェール』で4年間連載され好評を呼んだ巻頭エッセイを一冊にまとめたものだが、異国への旅を繰り返してきた沢木のキャリアでは初めて、すべて国内を巡って書かれた。「つばくろ」=つばめのように気ままに日本国内を歩き、見て、食べて、飲み、考えたことを、軽やかに、のびやかに綴った本作は、読む者の旅情を掻き立てる。
「『どこに行こうか?』で物語はもう半分できている」
沢木はこれを読んだ人に「異色の国内紀行文」と指摘され、気づいたことがあるという。旅の仕方が”一般的ではない”のだ。
「どこに泊まって、何を食べて、こういう景色を見て、という”普通の”国内の紀行文とは全然違うものですね、と言われて、自分で『あ、そうだったんだ』と意外な発見がありましたね。例えば『旅のつばくろ』の初めでも、記憶を確かめるために浄土ヶ浜へ行きますが、自分にとって意味のある場所に行くというだけで、そこが観光地であることや、そこで海鮮丼を食べることも重要ではない。要するに、自分が『どこに行こうか?』と思うときに、もう物語の半分はできているわけじゃない? で、実際に行ってみてどういう旅になったかで、残り半分のピースが合わさって、1つの旅になっていく」
ガイドブックに載っているような何かをあらかじめ目指していくのではない、沢木にとって意味のある物語へ出会いに行く。まさにつばめのように気ままに。本作に収録されているのは、たまたま風に吹かれたようないきさつの旅ばかりだ。
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