「世界の日立」を生んだ街、駅が人気スポットに 企業も自治体も発展の原動力は鉄道だった

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東京から至近の炭鉱だった常磐炭田は、明治初期から活況を呈した。常磐炭田から東京までの運炭に列車がフル活用されることになった。

常磐炭田が活況に沸く中、秋田県の小坂銅山を成功に導いた久原房之助が鉱山開発のために日立へと進出してくる。久原は日立鉱山の実質的な創業者とされるが、なによりも鉱山業を近代化させた立役者でもある。鉱山の近代化とは、人力に頼っていた採鉱を機械化へシフトしたことを意味する。

久原が推し進めた鉱山の近代化は、機械化だけにとどまらない。新たなビジネスモデルも構築した。大量かつ迅速に銅を運ぶことができるという鉄道の力に着目した久原は、日立鉱山が助川駅から近い立地を活かそうとした。鉄道は単に採掘した銅を搬出するだけではなく、ほかの鉱山から買いつけた銅を搬入するのにも役立つ。

こうした特性を踏まえ、鉱山の麓に精錬所を開設。日立鉱山で採掘した銅と、よその鉱山から買いつけた銅を同じ工場で精錬した。こうした効率的な使い方により、精錬所は絶え間なく稼働し、生産性は向上。さらに、精錬による加工収入も得るようになった。

機械部門は苦戦続き

久原による鉱山の近代化により、1906年に260トンだった日立鉱山の採銅量は、1912年には7800トンまで増加。当然ながら日立鉱山で働く労働者は増え、関連工場も増えた。

日立鉱山専用電気鉄道で使用されていた電気機関車。現在は、日鉱記念館の敷地内で展示・保存されている(筆者撮影)

1908年に開業した日立鉱山専用電気鉄道は貨物列車としての趣が強いが、鉱山の労働者やその家族も利用するなど旅客輸送としても活躍する。日立鉱山の恩恵を受け、助川駅一帯も大いににぎわうことになった。

しかし、活況を呈する日立鉱山とは裏腹に、機械部門である日立製作所は苦戦を強いられていた。日立鉱山では採鉱で稼いだ収益を機械工業部門に回すことに理解は薄く、久原も機械工業分野への進出に消極的だった。そのため、日立製作所の創業者だった小平浪平は数少ない技術者と悪戦苦闘する日々を送る。

転機になったのは、1914年に勃発した第1次世界大戦だった。鉱山で使用していた機械の大半は、海外からの輸入に頼っていた。大戦の影響で輸入が途絶えると、機械を自作するしかない。小平は社内の技術者を結集して機械製作に取り組み、第1次世界大戦という危機を乗り切る。

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