「世界の日立」を生んだ街、駅が人気スポットに 企業も自治体も発展の原動力は鉄道だった

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1945年、敗戦が濃厚になっていた日本では、本土のあちこちが空爆された。軍需工場が多く立地していた日立市も戦略上で重要だったため、大規模な空襲を2回も受けた。日立空襲では日立製作所敷地内にも1トン爆弾が着弾している。日立市への攻撃は空からだけではなかった。連合軍は日立沖から日立製作所の工場を狙った艦砲射撃を実施。激しい攻撃を受け、日立の街は灰燼(かいじん)に帰した。

再起不能な戦禍を負いながらも、日立製作所は復活を遂げる。その復活にも鉄道が影響を及ぼしている。

1964年、東京五輪が開幕。事前に、インフラ整備として羽田空港と都心部を結ぶ輸送機関の新設が検討された。議論の末、同区間にはモノレールという新たな輸送機関を導入することが決まる。その車両製造を日立製作所が担当することになった。車両製造を担当した日立製作所だが、子会社が東京モノレールに出資して経営にも関与。現在は子会社から株を譲渡された日立製作所が東京モノレールの株主に名を連ねている。

戦災復興と高度経済成長で日立製作所が再生すると、お膝元でもある日立市も都市としての活力を取り戻していく。

戦災復興事業により、日立駅は新駅舎へと改築されていた。改築と同時に駅から約1kmにわたって西へと延びる道路は幅員36mに拡張された。そして、その両脇には桜が植樹され、歩道と車道の間にバス停車スペースを整備。駅を中心とした交通体系が構築されていく。

勢いを失った鉱山

日立市が戦災復興を遂げ、経済を支える日立製作所も高度経済成長で力を取り戻した。その一方で、母胎だった日立鉱山は昭和30年代から深刻化する公害問題を端緒に規模の縮小を迫られていた。

日立鉱山専用電気鉄道の助川駅跡地は日立シビックセンターへと姿を変えた。館内には科学館や図書館などがある(筆者撮影)

日立鉱山は1958年からトラック輸送へ切り替え、鉱山と日立駅前を結んでいた日立鉱山専用電気鉄道は1960年に運行を停止。鉱山電車の運行停止は公害対策が主眼だったが、折しもモータリゼーションの波とも重なって、旅客専用路線に転換するという意見も出ないまま姿を消した。

日立の活力を牽引してきた日立鉱山が勢いを失い始めた頃、政財界からは新たな産業の柱を模索する動きが芽生えていた。そこで白羽の矢が立ったのは、日立駅からアクセス良好な神峰公園(現・かみね公園)だった。

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