「世界の日立」を生んだ街、駅が人気スポットに 企業も自治体も発展の原動力は鉄道だった

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戦前期、日立町と助川町の合併協議では、市民の憩いの場となる都市公園を設置することが条件として付されていた。第2次世界大戦の開戦で頓挫するが、戦災復興が一段落した1953年に構想は再浮上。こうした背景から、1957年に神峰動物園が開園する。神峰動物園は歳月とともに園地を拡張し、飼育する動物も充実。その後、動物園だけではなく、遊園地や市民プールなども整備されていった。

しかし、日立市は企業城下町のイメージが濃く、市民の大半が日立関連企業で働く従業員だった。そうしたことから、公営ながらも神峰公園一帯の諸施設は日立グループの福利厚生施設と見られがちだった。市外からの来園者は乏しく、観光面での貢献度は低かった。

そうした状況を打破するべく、日立市は1971年に観光課を発足。それを受け、観光振興にも力を入れるようになる。その成果もあり、かみね動物園の来園者は年間45万人まで増加。しかし、かみね公園・動物園の来園者の大半は県内からの行楽客。これが観光都市を目指す日立市の課題として残った。

2010年代に入ると、グループの再編が加速。日立駅一帯に集積していた日立製作所およびグループ企業は存在感を薄くしていった。こうした産業構造・都市の変化もあって、日立市の観光振興は急務になっていく。

駅が街の新たな観光名所に

日立市は都市の再生策として、日立駅のリニューアルを検討する。戦災復興で建て直された日立駅舎は竣工から50年以上の歳月が経過して老朽化が目立つようになり、2005年から整備計画の検討が始まった。

日立市の表玄関となる日立駅中央口(筆者撮影)

駅舎は市の顔でもあるため、日立市は慎重に議論を重ねていく。最終的に、新駅舎は日立市出身の建築家・妹島和世さんがデザイン監修を務めることになった。東日本大震災で開業が遅れたものの、2011年4月に印象に残る外観の新日立駅舎が供用を開始。駅の自由通路には、全面ガラス張りで海の見える広場が新たに開設された。

その広場から眺める朝焼けは特に美しく、SNSなどで拡散されて評判を呼ぶ。これらが起爆剤になり、オーシャンビューを楽しもうと日立駅に立ち寄る観光客も出てきた。期せずして、日立駅舎は新たな観光名所になっている。

近年は茨城県の政財界が一丸となって、かみね動物園へのパンダの誘致に力を入れている。それらと連動し、日立駅は観光都市の玄関口としての役割を強めようとしている。

日立鉱山や日立製作所でにぎわった鉱工業都市の面影は薄れつつある。企業城下町の玄関駅は、今、新しい局面を迎えている。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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