「それ、デブハラだから」
当然ながら、個人の権利や個性を重視する、あるいは訴訟大国であるアメリカにおいて、肥満を笑いものにすることは禁物だ。
5~6年前のことだが、筆者が取材で渡米した際、宿泊したホテルで朝食をとっていると、目の前にある屋外のプール(一応、温水だが冷たい)で、真冬のような寒さの中、早朝からバッシャバシャと平気で泳いでいる白人男性がいて、これがまたびっくりするような巨漢であった(欧米ではまま見かけるが)。それを見て筆者が、「やっぱり皮下脂肪が多いと……」と言いかけると、「それ、デブハラだから」と同行者にピシリと注意された。そのとき、「そうか、そういうことも言ったらいけないのか!?」と考えさせられたものだ。
しかし、アメリカのドラマでは、特に規制のゆるいケーブルテレビ局の番組では差別的ととられる発言は少なくない。たとえば、Showtimeの人気番組だった『キャシーのbig C』では、主人公の女性教師が自分に反抗的な肥満の黒人女生徒に対して、「デブで性悪なんて終わってる。陽気なデブか性悪な痩せ、どっちか選ぶのね」と言い放つシーンがある。これは女生徒の健康を気遣ってのことなのだが、フィクションならともかく、実際にはこうした発言は慎まなければならない。
『私はラブ・リーガル』ではデビーの知性に対するコンプレックスも笑いを誘う。これも差別的な要素を含むと言えるかもしれない。ジェーンの生前の優秀な頭脳はそのままなので、急に才女の弁護士になったことがわかった瞬間、中身のデビーは「私、頭がいいのよ!」と無邪気に喜びまくる。以前のデビーは美人で見栄えはいいが、頭脳で勝負するタイプじゃないことを自覚していたから、外見磨きに命を懸けていたのだろうか? 一方、生前のジェーンはジェーンで仕事に没頭する生活を送っていたが、デビーのような女性をうらやましく思うと同時に、バカにする気持ちもあったのだろうか?
見た目は冴えないが優秀な女性と、明るく前向きだが外見にすべてを懸けている女性。後者の魂が前者に乗り移って人生を歩み始めたとき、デビーの魂はあらためてシンプルにして究極の問題を見つめ直すことになる。
「見た目って、そんなに重要なの?」
現実として、見た目の重要度は増す一方である。ジェーンはブスではないが、肥満ぎみではあることは確か。で、ブスはともかく、肥満とは個人の努力でやせることが可能と考える人は多く、それが社会通念だから、太っている人は周囲から“ダメ”の烙印を押された気になるのだろう。肥満が種々の病気を誘発するといったネガティブな印象もある。
ハリウッド女優やモデルのスレンダーな体型は、しばしば世の女性たちに不必要なまでのやせ願望を加速させる、と問題視されることがある。『クローザー』の主人公ブレンダなどスイーツ好きの女性キャラは共感度が高く人気があるが、総じて誰も太ってはいない。
その昔、前出の『アリー my Love』の主演女優、キャリスタ・フロックハートがあまりにもやせこけていて、共演のコートニー・ソーン=スミスは、同じ画面で彼女と並ぶ自分を見て太っているとショックを受け、自分が太っていることに対して強迫観念を覚えるようになり、過度なダイエットを始めて、精神的に追い詰められたと告白していた。コートニーはキャリスタに比べればふっくらとして見えたが、どう考えても太ってはいないし、それが彼女のベストの体重だと思える美しさだったにもかかわらず。
こうしたハリウッドのスリム信仰に対して、イギリスの女優ケイト・ウィンスレットは、自分が表紙になった雑誌の写真に無断で修正を加えられ、スリムにされたことに憤慨して訂正を申し入れたことが話題になった。ハリウッドの女優はやせることにばかり神経を注いでいると揶揄して、不必要なダイエットはしないとのポリシーを表明している英国女優は、ケイトを筆頭に少なくない。お国柄の違いか、俳優という職業に対するスタンスの違いだろうか?
それでも、一般的には「やせている=美しい」という概念は根強い。「男性はぽっちゃりしている女性のほうが安心する」などといった説は定期的にメディアで流行するが、実際のところ女性からすれば、それはたいした効力を持つ言葉ではないだろう。ステキな洋服をおしゃれに着るなら、やっぱり標準よりもやせていたほうが着映えがするし、女性は男性からの視線以上に女性からの視線を気にしている場合のほうがずっと多いかもしれない。もっとも、今は不健康にやせているより、ヘルシーに見えることがトレンドではある。
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