太った女性に対する差別意識に自分が傷つけられる
ドラマに話を戻すと、生前のデビーはごく普通の善良な人間だった。少なくとも彼女自身は自分のことをそう思っていた。だが、天国の入り口で門番に、「悪いこともしてないが、よい行いもしていない」と言われ、自分の葬式で「デビーは薄っぺらい人間だった」と話すモデル仲間の会話を聞いてショックを受ける。そして、外見はジェーンとして生きることになり、自分がかつて無意識にしていた、ジェーンのような外見の女性に対する差別意識や優越感といったものに、今度は自分が傷つけられることになる。
そのことを身にしみて感じるのが、第9話だ。ある店に出かけると、小さいサイズの洋服ばかりで自分のサイズがなかった。店員に大きいサイズはないのか聞いたところ、明言はしないが、かなり露骨に「うちの店はあなたにふさわしくないから出ていけ」というプレッシャーをかけられる。そのことに憤ったジェーンは店を訴える。洋服でなくとも、似たような侮蔑的な店員(または仕事相手)の態度を何らかの形で味わったことがある人は多いのではないだろうか。
筆者も、上から下まで品定めされるような視線にさらされることの苦痛は、さまざまな場所で感じたことがある。軽んじられたと思ったときには、次は必ずもっときちんとした格好で気合いを入れて来ようと思ったりもする。人を見た目で判断するのは下品なことだと思いつつ、見た目を気にするのは人間の性なのだ。
見た目は大事だが、すべてではない
もっとも、このドラマでは、見た目は大事な要素であることを否定してはいない。法廷などのビジネス・シーンにおいても、きちんとした服装や堂々とした態度、好感度は重要だ。
たとえば、夫の精神的なDV(ドメスティック・バイオレンス)に苦しめられていた女性の案件。離婚調停の際にも夫に威圧されて、女性は手足が震えてうまく証言することができない。ジェーンはクライアントであるその女性に、ファッションから歩き方、話し方などを伝授し、自分に自信を持たせることで交渉を有利に運ぶことに成功する。
一方で、高いおカネを出してエリート犬を購入したのに、望むような結果を出せなかったから返金して欲しいと依頼してきた男性。自分にすっかり懐いたおバカな犬と、いざとなったら別れたくなくなる。このエピソードからもわかるように、外見だけ、優秀なだけで人は何かを判断するわけじゃないということも、ドラマはしっかりと伝えている。これこそが本作のエッセンスだろう。
ジェーンは仕事仲間として、デビーの婚約者だったグレイソンと仲良くなるが、グレイソンは事務所の才色兼備キム(ジェーンに対して上から目線の品定めせずにはいられない女)と、いい感じになる。当然、ジェーンはグレイソンと彼女のことを思うといたたまれない気持ちになる。
デビーを本気で愛していたグレイソンは、いつかジェーンの魂がデビーであると気づくことができるのか? またはそのとんでもない事実を知ったとき、受け入れることができるのだろうか? 恋愛模様はなかなかややこしくなるのでドラマを見てのお楽しみだ。おとぎ話の『カエルの王子様』や『美女と野獣』のように、外見に惑わされることなく、内面の美しさを見抜くことができたなら、人は“真実の愛”を手にすることができるのだろうか?
問題はそう簡単ではないかもしれない。外見と中身を切り離して考えることは、現実的には難しく、不自然なことだから。だが、かつてのデビーと親友ステイシーが、それまでは住む世界が違うと考えていたような弁護士事務所のアシスタントのリーらと、お互いの良いところや悪いところを受け入れて仲良くなっていく過程はステキだ。後に出てくるジェーンの恋愛も、またしかり。「●●だからこう」といった決めつけや画一化された価値観にしばられていては、こうしたステキな人間関係は築けない。
人にはそれぞれ個性があるのと同じように、骨格やその人の生活スタイルなどに見合った適性体重というものもあると思う。ダンサーや歌手、コメディアン、俳優などを見れば、太めでも驚くべき身体能力で才能を発揮している人は多いし、職業によってふさわしい体型というものはあるだろう。
アメリカでジェーンのような太め体型の主人公をポジティブに描く作品が誕生する背景には、基準からは外れた体型、ひいては人とは違った外見であったとしても、それもまた個性であり、“人と違うこと”を積極的に肯定するべきだというメタファー、応援歌の意味合いがありそうだ。
筆者は本作を食わず嫌いしていたが、今では、はつらつとしたポジティブオーラ全開のジェーンに元気をもらっている。
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