記憶に新しいのは、2011年、東日本大震災後の開幕日をめぐる騒動だ。3月11日に震災が起こり、楽天の本拠地仙台も甚大な損害を受けた。3月15日には12球団の代表者による臨時の実行委員会が開かれ、25日に迫った開幕戦について話し合った。このときセは予定通り開催を主張、パは延期を主張し、議論は平行線をたどった。
日本プロ野球選手会がコミッショナーなどに開催延期を訴えたが、セ・リーグは譲らず。当時の加藤良三コミッショナーが、セ・リーグの意を汲んでパ・リーグを説得しようとした。
選手会の再度の説得や、蓮舫節電啓発担当相(当時)の要請もあって、3月24日になってセ・リーグはパ・リーグと同じ4月12日の開幕に同意した。しかし9日間にわたって続いたセ・パ両リーグの「すったもんだ」は、多くの人に「震災という非常時にプロ野球は何をやっているのか」という印象を与えた。
セ・パの因縁は古くから
セントラル・リーグとパシフィック・リーグは、なぜ足並みがそろわないのか。
その因縁は今から71年前にまでさかのぼる。
1949年2月、プロ野球の実質的な創設者で、職業野球連盟の初代コミッショナーに就任した正力松太郎は「2リーグ構想」を打ち出した。既存チームの中には「観客を奪われる」と反対するチームもあった。正力が公職追放で経営から一時的に外れていた、ひざ元の巨人がその急先鋒だった。これに対し南海や阪急は新加入の毎日や西鉄などとともに新リーグ設立に動く。これがパシフィック・リーグとなる。
やむを得ず巨人、中日など分立反対派も国鉄、大洋、広島など新球団を伴ってセントラル・リーグ設立に動いた。阪神は関西の電鉄会社のよしみで当初はパに加入する予定だったが、巨人の勧誘でセに加入した。新リーグ設立を推進した毎日は阪神の変心に怒り、若林忠志、別当薫、土井垣武ら阪神の主力選手を強引に引き抜いた。これをきっかけに両リーグは、険悪な関係になった。
あまりにも両リーグの対立が激しかったために、両リーグ1年目の1950年は、オールスター戦が開かれなかったくらいだ。
以後も両リーグは異なる路線を歩んだ。セ・パ両リーグは、オールスター戦と日本シリーズでこそ相まみえるが、シーズン運営は別個だった。開幕日が異なることも珍しくなかったし、長く公式戦の試合数も異なっていた。
1958年に立教大学のスター長嶋茂雄が入団して以来、巨人が圧倒的な人気を博するようになり、両リーグは観客動員、人気で大差がつく。テレビの巨人戦は高視聴率が期待できる優良コンテンツとなり、セの各球団は巨人戦の主催試合の放映権料で潤うようになる。これに対しパ・リーグは、親会社の支援で辛うじて命脈を保った。
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