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リアリティー番組とは、あらかじめ脚本を用意せず、その場で現実に起きる様子を記録、編集して放送するタイプの番組のこと。古くから存在する手法だが、'90年代後半以降は映像編集技術の向上から、膨大な収録映像を編集することで容易に番組を構成可能になったことで、このジャンルが大きく発展し、世界中でさまざまなヒット番組が生まれることになった。
テラスハウスは「ウンナンのホントコ!」の企画として放送された“未来日記”(1998~2002年)や「あいのり」(1999~2009年)など恋愛リアリティー番組人気が高かった日本で、フジテレビが2012年に放送を開始。2014年に放送終了していたが、海外向け番組販売で好調だったことから2015年からNetflixとフジテレビが手を結ぶ形で復活。グローバルでの配信が行われ日本以外での人気も高まっていた。
テラスハウスの制作手法は承知していないが、一般論としてこうしたリアリティー番組では“テーマ設定”や“場面設定”などは行われるものの、収録される映像に対して演出を入れないことが原則だ。
一方で演出がまったくないかといえば、当然、そこにはリアリティー番組として成立させるための創意工夫は当然のように行われる。海外では、一部の出演者に対して特定の役割や発言を促すといった演出が行われている。
テラスハウスに関して、海外のリアリティー番組にあるような恣意的な演出、出演者への働きかけがあったか否かはわからない。しかし、例え演出が最小限であったとしても(そのことは肯定する材料も、否定する材料も持っていない)、最終的に求められるのはストーリーだ。映像制作を行う側は、膨大な映像を編集し、出演者の意志とは無関係に物語を紡いでいく。
出演者自身も「どう描かれているか」わからない
テラスハウスは、共同生活を続けながら、スタッフが映像を編集、配信・放映を続けるというスタイルであるため、放送されるまで出演者自身も自分のことをどう描かれるかは、知る由もない。その中で、思わぬ形で出演者が傷つくことは容易に想像できる。例えば、リアリティー番組への人気が高いアメリカでは、リアリティー番組を通じてアメリカ全土に知られるセレブへと上り詰めた人たちも生まれているが、一方で自らの命を絶つ出演者もいる。
番組制作側は出演者たちの物理的、精神的、両面のケアを行う必要性は8年もの制作経験の中から十分認識していたはずだ。
コロナ禍にあっては、そうしたケアを施し難かった事情はあったのかもしれない。しかし、長年の制作経験を経て人生経験が少ない出演者の心のケアが行き届いていなかったり、あるいはSNSを通じての苛烈な攻撃を認識していなかったのだとしたら、リアリティー番組を業務として制作している側は“杜撰”とのそしりを免れることはできない。
リアリティー番組において、放映される映像は出演者たちの生活の“ごくわずかな一部分”でしかない。よほど非日常的な生活を送っていない限り、人の日常は特別なものではない。特別ではないからこそ日常なのだ。言い換えれば、特別なものではない日常をつなぎ、出演者の感情や気持ちの濃度を高め、視聴者の期待、想像力を高めることでエンターテインメントとして作り上げているのがリアリティー番組とも言える。そこには編集する側の意図が明確に存在する。
テラスハウスでは、番組冒頭で「台本は一切ございません」のナレーションが入る。実際、日常生活を捉えるこの番組において、コンテンツに現実味と意外性を持たせるには台本がないほうがいい結果が得られるだろう。ほとんどの出演者が駆け出しのモデルやタレント、俳優やスポーツ選手で構成されるこの番組の場合、出演者自身の思惑や期待を刺激しつつ生活させ、その中から数字が取れるシーンをつなぎ合わせることが多いと考えられる。
とはいえ、それは番組制作上の手順にしかすぎない。
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