沢木耕太郎が40年訪れたかった土地で見たもの 国内旅のエッセイ集「旅のつばくろ」より
しばらくして中原さんに会うと、「沢木さんはアマチュアの何級くらいの棋力なんですか」と訊ねられた。駒の動かし方がようやくわかるくらいです。そう正直に答えると、「そんな人にあれは書けません。何級くらいですか」と重ねて訊ねられてしまった。困惑しながらも、私は内心で快哉を叫んでいた。
──やったぜ!
しかし、書き終えて、1つの心残りができてしまった。
中原さんは塩竈の出身だった。生まれたのは鳥取だが、幼い頃に両親と共に移り住み、十歳で東京の師匠宅に弟子入りするまで、塩竈で成長していた。ご家族はすでに東京に出てきていたので、わざわざ塩竈まで取材に行く必要はなかったのだが、中原さんが育った土地の雰囲気を知らないまま人物論を書かなくてはならなかったという無念さが残ってしまった。
当時の私は極端に収入が少なく、土地の光や風を味わうためだけに塩竈まで行くという金銭的な余裕がなかったのだ。
以後、いつか行きたいと思っていたが果たせなかった。それが今回、図書館で話をするという機会を得て、ようやく塩竈に行かれることになった。
講演は夜だったが、昼前に仙石線の本塩釜に着いた私は、とにかく塩竈の街を歩いてみることにした。
駅の近くのレストランで牡蠣フライ定食を食べると、古い商店や蔵が点在する道を通って鹽竈神社に向かい、202段というとんでもない数の石段を上って参拝した。さらに、またその石段を降りると、今度は松島観光のひとつの起点となっている港まで歩いていった。
途中の商店街が寂しくなっているのはどこの地方都市でも同じだが、もし四十数年前に塩竈を訪れていたらもう少し異なる貌の街並みを見ることができたのだろうなとちょっぴり残念に思った。
「タイムシップ塩竈」を訪れると…
夕方になり、チェックインをするためホテルに向かいかけたが、ふと思いついて、近くにある「タイムシップ塩竈」なる施設に足を運んでみることにした。
そこは縄文時代からの塩竈の歴史をコンパクトに説明してある展示スペースだった。
その最後のところに、塩竈に縁のある有名人として、三人の人物のパネルとそのゆかりの品が展示されていた。1人は画家の杉村惇、1人は俳人の佐藤鬼房、そしてもう1人が棋士の中原さんだった。
見ると、中原さんのパネルの前には、母親の裁縫用の台を利用し、父親が自分で作ってくれたという将棋盤が飾られていた。
なるほど、まさにその将棋盤から、中原さんの十六世名人への道は始まっていったのだ。
昭和45年生まれの羽生さんも、平成14年生まれの藤井さんも、さすがに手作りの将棋盤は使わなかっただろう。そこに、いかにも戦後すぐの頃に生まれた「昭和の棋士」の名残りが感じられ、微笑ましくなった。そして思った。ここにだけは四十数年前の塩竈とつながる回路があった、と。
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