別の記事「日銀と政府の新型コロナ対策は間違っている」でも振れたように、本当に新型コロナショックで困っているのは、資金繰り倒産、需要消失倒産のリスクに直面している中小企業、およびエアラインやホテルなど特定業種の大企業であり、それらに伴う失業者である。
彼らへの手当はもちろん懸命にやるべきだ。だが、新型コロナショックは普通に考えれば、1年後までこの状況が続くことはありえない。半年の苦境で倒産してしまうというリスクを回避すれば、需要対策は要らないはずだ。経済封鎖、移動制限が解消されれば、需要は回復するはずであり、逆に言えば、それが解消しなければカネをばらまいたところで窮地の企業への需要は全く出てこない。
しかし、220兆円の対策を発表すれば、株式市場は喜び、エコノミストは景気見通しを楽観に改定し、世の中のムードは良くなり、とりあえずみんなハッピーになる。そのために対策をやっているのであるが、将来の経済は220兆円の支出のツケを払わされるだけであり、現在の恐怖に支配された人々の多数派の圧力に、未来の人々の声はかき消されてしまうのである。
そして、政策の効果は比較検討されずに、対策を打ったから経済が崩壊せずに済んだ。借金が残ったといっても「あれをやらなければ、経済が崩壊して元も子もなくなっていた」という検証不可能の言説が世間を支配してしまう。
多数派の圧力が「真実をつくる」機会を目のあたりにした
政策が比較検討されず、多数派の圧力に支配されるのは、経済対策だけでない。新型コロナ対策そのものでさえそうだ。経済封鎖が正しいのか。効率的なのか。手洗い、うがいを一人一人がとことん徹底して行う方がマスクを配るよりも効果的でないのか。外出制限と同じ程度の効果が、経済的な負担ははるかに少なく、実現できるのではないか。
このような議論は「人命は何よりも優先される」、という政治家の演説と人々の恐怖感によってかき消されてしまう。そして、オーバーキル(やりすぎ)の政策を唱え、打ち出した人々は「徹底的にやったから、これだけの被害で済んだんだ、俺の(わたくしの)英断で世の中は救われたのだ」、と暗に主張し、満足しているのである。
株式市場、実体経済、経済政策、そして社会そのものまでが、多数派の圧力で、多数派の願望、恐怖に支配され、事実と無関係に決定されてしまい、それが事実ではない現実として、真実となってしまっている。それをこれほど目の当たりにする機会もこれまでなかった(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの私が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承下さい)。
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