”ヤンキー管理職”の下は死屍累々 精神科医・斎藤環×歴史学者・與那覇潤(4)
「安倍晋三くん」「はいっ」の民主主義
與那覇:その問題でまさにいま心配なのが、保守回帰したといわれる安倍自民党です。言葉の使い方が非常に稚拙だという印象がある。改憲論にしても、たとえば前文にある“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して”の文言が「はい間違い。だって北朝鮮は平和を愛してないから」とか言う政治家がいるわけでしょう。理想を述べる部分と現実を述べる部分の違いも、そのように述べることで国際社会への復帰(国連加盟)を勝ちとったという歴史的な文脈も読まずに、文字面だけを取り出して「俺のハートにガツンと来ないから変えようぜ」みたいなレベルの話をしている。
昔、ネット右翼がしたり顔で「集団的自衛権がない日本は異常です。つまり自衛官は日本国民という集団ではなく、自分個人のことしか守れません」と書いているのを見て、ものすごい衝撃を受けたんですけど(笑)、国の中枢までそれと変わらないレベルになっているんじゃないかという恐ろしさを感じます。「現に俺にはこう読めた」という手前勝手な解釈を、一度も吟味せずに、おのずと内外に通用するものだと信じてるんですね。
斎藤:ヤンキーが重視するのは、個人ではなく、家族や地元をはじめとする中間集団なんです。そこにおけるあうんの呼吸は言葉がいらない世界だということですよね。そういう中では言葉を重視すれば、ダサいとか、わずらわしいとかいうことになりやすいでしょうし、個人という発想も欠落してくる。自民党の改憲案を見ても、「公共」という言葉がすごく乱発されていますけど、結局、この公共って世間のことだろう、中間集団のことだろうとしか思えない。パブリックという概念がないんじゃないかという印象が強いですよね。
與那覇:民主党政権の際にインテリは「新しい公共」といって、それに対抗しようとしたわけですけど、結局うまくいかなかったということですね。
斎藤:だからまあ、民主主義というものの理解が、どこまでいっても「多数決の民主主義」、もっと言えば中間集団民主主義になっていて。もうひとつの重要なベースであるところの「個人主義」的なところが完全に欠落したままの状況が続いている感じがしますね。