「手紙で人を口説く達人」秀吉の筆まめ文章術 相手を「感動させる」という点に優れていた

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豊臣秀吉は文章の達人でもありました(写真:sunabesyou/PIXTA)

日本史において、手紙の「文章」は、命運を賭けた戦略を遂行するうえで、重要な役割を担っていました。拙著『心をつかむ文章は日本史に学べ』でも詳しく解説していますが、実際、織田信長や豊臣秀吉、西郷隆盛、坂本龍馬など、歴史に名を残した人たちは、何かにつけて手紙を活用しています。

文章の達人でもあった豊臣秀吉

なかでも豊臣秀吉は、常日頃から相手を気遣う手紙を方々に送っており、そのおかげで「本能寺の変」の後、いち早く明智光秀を倒し、天下統一を果たすことができました。秀吉は、対面でのコミュニケーション力が高く、「人たらし」といわれますが、実は文章の達人でもありました。

秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)を務めた学者の大村由己(おおむら・ゆうこ)が、『関白任官記』の中で秀吉を、「不肖にして、文書を学ばざること悔ゆ。唯今儒者を招きて数巻の古伝、諸家の系図等これを学問し、悪を捨て膳を用うること多し」と書いたことから、秀吉は読み書きができなかったと思い込んでいる人もいますが、文中の「文書」とは儒学をはじめ漢籍の素養のことです。

儒学者・軍学者である小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が書いた『太閤記』によると、読み書きについて、秀吉は8歳の時に尾張中村(現・愛知県名古屋市中村区)の光明寺に入れられ、寺を追放されてからは商家へ奉公に出たとあり、一通りの手習いや算術は身に付けていました。

むしろ秀吉は筆まめでしたが、後世に残った自筆書状は、ほとんどが仮名書きのものでした。私文書でも公文書でも彼は、「ちくせん」(筑前)、「てんか」(天下)、「大かう」(太閤)といった署名をしています。しかも自己流で、「是非」が「せし(ぜし)」、「同じ事」を「うなじ事」といい、その文章には俗語や方言が、飛び交うように入り交じっていました。

たまに漢字も見えるのですが、ほとんどがいい加減な当て字ばかり。「御膳」を「五せん」、「奥州」を「大しゅ」、「代官」を「大くわん」、「大納言」を「大なんご」などとしています。

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