「戦国武将」が実践していた知られざる健康法 武将たちも「酒の害」には悩まされていた
三本の矢の教えで知られる毛利元就(もうり もとなり)は曲直瀬道三と親交を結び、次のような助言をもらっています。
「常の食 四時に順じ 五味を和し 飽に及ばず または飢えざれ」
日常の食事は季節ごとの旬のものを、かたよらないように食べなさい。飽きるほど食べてはいけないし、空腹をがまんするのもよくない、という意味です。四時とは四季のこと、五味は酸味、苦味、甘味、辛味、塩辛味のことです。
苦労して地位を築いた元就は非常に慎重な性格でした。中国地方のほとんどを治める大大名になっても道三の助言に従い、贅沢せず、旬の食材をバランスよく食べるようつとめました。
定番のおかずは瀬戸内海で獲れたイワシなどの小魚と、地元の野菜だったそうです。元就の領地はもともと中国山地の中にあり、大名となったのちも海から離れた吉田郡山城を居城にしていました。
地図で見ると、瀬戸内海まで直線距離で40キロメートルほどあります。
昔は海岸線が多少入り込んでいた可能性はあるものの、馬を乗り継いで2時間程度かけて運んだのかもしれません。
酒は両刃の剣
毛利元就がとくに心配したのは酒の害でした。元就の祖父、父、兄はいずれも酒量が多く、それぞれ33歳、39歳、24歳で死去しています。そのため元就は酒を飲まず、息子や孫に対しても少々ならよいが決して飲みすぎないようにと何度もいましめました。跡取りの隆元は元就より先に40歳で亡くなってしまいますが、孫の輝元は73歳まで生きて、のちに豊臣秀吉に仕えて五大老の1人となるなど毛利家の存続に力を尽くしました。
酒と言えばこのころに日本を訪れたスペインの商人は「日本の酒は健康によく、体に肉がつく。スペインのビールとはくらべものにならないほど上等だ」と書き記しています。目上の人から杯をもらう風習は日本独自のもののようで、日本に滞在したポルトガルの宣教師たちは、秀吉に謁見するたびに杯を回され、驚き、感激したようです。
酒には武士を奮い立たせ、戦いの疲れをいやす力がありますが、それも節度をもって飲めばこそ。酒に気を許さなかった元就と異なり、酒で失敗する武将が少なくありませんでした。
伊達政宗は深酒して側近の頭を脇差しで殴り、ケガをさせていますし、福島正則にいたっては酒の飲みすぎをいさめた家臣を切腹させたあげく、酔いがさめてから家臣がいないことに気づき、事実を知って号泣したとか、秀吉から贈られた見事な槍を酒の勢いで人に与え、これが大騒動に発展したなどの話が伝えられています。
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