日本人が理解していない韓国人の「恨」の意識 "火の中"に飛び込んだ、元外交官の視点
日韓関係の深い暗闇
私は1987年、外務省でアメリカとの経済関係を担当する北米第二課長から朝鮮半島担当の北東アジア課長に異動した。アメリカとの経済交渉は本当に過酷だった。1週間のワシントン出張で2回徹夜することなどはざらだった。北東アジア課も多忙を極めていた。
ただ、当時、北東アジア課の日常の仕事のほとんどは対韓国だった。日韓両国の関係は、当時も決して良好ではなく、この異動は、「熱したフライパンの中から、火の中に飛び込む」ようなものだった。
それまで韓国に行ったこともなく、韓国の人や在日韓国・朝鮮人ともほとんど話をしたことがなかった私は、その歴史を学び、両国間に残る数々の深刻な問題の存在を知った。第2次世界大戦が終わり、日本には日本国籍を放棄した朝鮮半島出身者が70万人近く取り残されていた。彼らは無国籍あるいはのちに韓国籍を取得した人々であり、日本人と同等に扱われるわけではなかった。いわゆる在日韓国・朝鮮人だ。
自分の意志ではなく日韓併合により日本国籍を持たされ、日本が戦争に負けたため日本国籍を放棄し、日本人としての保護が受けられなくなった人々の抱えた問題を解決するのは日本の責務と思った。
外国人登録証明書の指紋押捺制度の廃止やサハリン残留韓国人の韓国への帰還、被爆したのち韓国に戻り原爆治療が受けられなくなった人々の日本渡航治療の支援など数多くの課題に取り組んだ。これらは韓国に要請されたものではない。日本自らが取り組まなければいけない問題だった。
2005年に外務省を退官した後も、日韓の有識者で構成されている、日韓フォーラムのメンバーとして今日まで活動してきた。その間30年余り。
山あり谷ありだった。おそらく、1998年に小渕恵三総理と金(キム)大中(テジュン)大統領の日韓共同宣言が署名されてから2002年にサッカーワールドカップ共催が行われた頃までの時代が、日韓関係の花開いた時代だったのだろう。日韓共同宣言は未来への新しいパートナーシップを宣言し、金大中大統領は積極的に日本文化の解禁を行い、日本では韓流ブームが起こった。日韓ワールドカップを前に羽田―金浦間のシャトル便も軌道に乗った。
小泉純一郎総理の訪朝が2002年に実現し、対北朝鮮太陽政策をとっていた金大中大統領に歓迎された。
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