41 日本では江戸時代まで中国式の〈三垣二十八宿〉が使用されていた。
42 江戸前期に幕府天文方を務め、日本天文暦学の創始者といわれるのが天文暦学者・渋川春海である。
43 春海は朝鮮の『天象列次分野之図』を参考に、1670年『天象列次之図』を、77年『天文分野之図』を著す。
44 さらに星の位置を測定し、子の昔尹と共に『天文成象』(1699年)で星図を表した。
45 これは日本人による初編纂の星図で、中国星官に対し日本の官職名にあたる星座61座308星を追加している。
46 だが江戸中期、市井の天文暦学者であった麻田剛立らが精密な観測を行うと旧来の星図は役立たなくなった。
47 そこで彼らは中国で刊行された星表『欽定儀象考成』(1744年)記載の恒星表を歳差計算して使用し始める。
48 『欽定儀象考成』には従来の中国星座に含まれていなかった星も含め約3000個のデータが掲載されていた。
49 江戸後期になると福山藩士の天文家・石坂常堅は幕府天文方を手伝い『分度星図』(1818年)を発行。
50 1826年にはさらに測量を重ねた『方円星図』を刊行し、日本初の精密な星図を完成。占いにも使用された。
51 しかし1868年の明治維新によって幕府天文方は崩壊し、日本では西洋天文学の導入が一気に加速していく。
16世紀以降に南天の星が続々発見
52 西洋では16世紀に大航海時代がはじまると、プトレマイオスが示した48星座以外の南天の星が続々発見。
53 オランダの航海士らの記録をもとに1603年ヨハン・バイエルは星図書『ウラノメトリア』を刊行。
54 ヨハンはドイツの法律家であったが、その著書で南天の星座を描き、以降「バイエル星座」として知られた。
55 この時期の特長として南半球を航海した船乗りたちが目にした珍しい動物や新しい道具が星座名になった。
56 「カメレオン座」「くじゃく座」「ぼうえんきょう座」「コンパス座」などが、その一例である。
57 その後、西洋ではさまざまな天文学者が続々と新しい星座を設定するが、そのほとんどは生き残れなかった。
58 北天に新設定されたものは星が少なく星座が設定されていなかった領域に無理に作った例が多かった。
59 また王侯貴族にちなんで名づけられた星座も目立ったが、他国に認められずに消えていった。
60 それが整理・統合されたのは、1922年にイタリア・ローマで開催された国際天文学連合の設立総会でのこと。
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