21 その後、古代ギリシアの天文学者エウドクソスが現代につながる44星座を決定したとされるが文献はない。
22 一方、紀元前3世紀にはマケドニアの詩人アラトスが44星座を詩に残しており、こちらは確認されている。
23 アラトスが残した44星座はプレアデスとヒュアデスの2星団が星座として扱われているがほぼ現行である。
24 それを元に修正し、46星座を決定したのは紀元前2世紀に活躍した古代ギリシアの天文学者ヒッパルコス。
25 2世紀には古代ギリシア天文学をベースにローマの天文学者クラウディオス・プトレマイオスが星表を作成。
26 プトレマイオスの星表は「トレミーの48星座」と呼ばれ、現在天文学で使用されている星座の大元となった。
27 トレミーの48星座以後、欧州のみならずアラブでも、天文学では統一した星座が使われるようになった。
28 しかしこれらの48星座は、当時北半球の中緯度地域から見えるものばかりであった。
29 一方、中国では星空を天上世界の〈官僚機構〉に見立て、星同士を結ぶ線で構成される形を「星官」と呼んだ。
30 中国星座は西洋と違い、1星や2星といった少数の星で構成されているものも多いのが特長。
日本に中国星座が伝わったのは飛鳥時代
31 古来、天文家ごとに星官の名称は異なっていたが、三国時代に陳卓が石氏・甘氏・巫咸三家の星官を統合。
32 「283官1464星」となり、以降この体系が用いられた。宋代の「蘇州・石刻天文図」には1440星が刻されている。
33 西洋星座と異なり、星官には星空を分割した区画の意味は含まれていない。
34 天球上をある程度の広さを持った領域に区分したものを〈天区〉と呼び、「三垣二十八宿」として体系化した。
35 「三垣(さんえん)」とは北極を中心に天球を3分割(紫微垣・太微垣・天市垣)したものの総称。
36 「二十八宿」は赤道付近にある28星座を中心に、天球を28エリア(星宿)に不均等分割したものである。
37 さらに二十八宿を7宿ごとに東の青龍、北の玄武、西の白虎、南の朱雀と四分した「四象(ししょう)」がある。
38 それに加え、天球を12区画に均等区分した「十二次」や「十二辰」もあり二十八宿等と組みで使用された。
39 日本に中国星座が伝わったのは飛鳥時代といわれ、7~8世紀の天文記事にも若干の星座が読み取れる。
40 1998年に奈良・キトラ古墳の石室で発見された天文図に描かれていた星座の形状も中国式のものであった。
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