ついた初名は「桂こごろう」。桂小五郎は維新の三傑の1人、長州藩の木戸孝允の前名である。師匠べかこの「こ」を取ったとも言えなくもないが、推理小説好きの師匠が明智小五郎からつけたのだという。もちろん初代だ。
当時、高座に上がるとマクラ(噺の導入部)で「幕末には、私と同じ桂小五郎いう偉い人がいはったそうですが、まあ、先代同様、私のほうもよろしくごひいきのほど、お願いします」とぬけぬけとやっていた。筆者は落語会でこのマクラを初めて聞いた帰り、電車の中で思い出して笑いが止まらなくなった覚えがある。
1993年に師匠の桂べかこは三代目桂南光を襲名。しかし南天は以後も長く桂こごろうを名乗っていたが、2012年に二代目桂南天となった。初代はひょうひょうとした芸風で、筆者もかろうじてテレビで見た記憶があるが、当代との系統的な関係はない。
桂米朝の大山脈に連なる意味
桂南天は、三代目桂米朝の弟子の二代目桂枝雀の弟子の三代目桂南光の弟子。米朝からすれば「ひ孫弟子」にあたる。米朝一門の大山脈の裾野にいるというのは、どのようなものなのか?
「系図的にはすごく幸せなところに入れていただいたような気がするんです。それぞれの師匠の教えをそれぞれの濃度でいただける。米朝師匠の弟子ならば、米朝の教えが最も濃いほぼ100%です。そこに枝雀、南光の教えはいかない。
でも僕のところには、当然南光の教えがまず最初にびゅーっとくる。うちの師匠は“ここは枝雀はどう考えてるだろうか”と思いながら落語をしている。
その枝雀師匠は“米朝はこう思うだろうから僕はこうやろう”という思いがあって、さらに上の米朝師匠は“わしはこう思う、お前らこうしたほうがいいと思う”っていう教えがある。
僕はそれぞれの師匠の落語への思いを適度な濃度でいただけていると思います」
多くの師匠がいて、混乱はなかったのか。
「あるとき、枝雀師匠が“マクラを振りなさんな”って言わはったんですね。で、そうやってると米朝師匠が“今日はちょっとマクラ振ったらどや”と言わはる。こういうジレンマは、僕らくらいのキャリアの人は体験してると思いますが、こういうときは、せこいんですけど、米朝師匠の前ではマクラを振って、枝雀師匠の前では振らない、ということになる。一緒に出てはったらそれこそ大変ですが(笑)。
気ばかり遣って大変や、と思うかもしれませんが、そういう気遣いの中で自分の落語を向上させてるっていう意識がすごくあるんですよ。米朝師匠が枝を切って、枝雀師匠がまた枝を切って、うちの師匠がさらに枝を切って、残った部分をやる。窮屈な思いをしてるようですけども、その中で格闘して成長する感じがするんですよね」
南天落語でおすすめは、まず「動物園」である。若手も演じる軽い噺だが、南天の「動物園」では、毎日ブラブラしている気楽な男が、人の誘いにうかうかと(うっかりと)乗せられて、ぬいぐるみを着て動物園のおりに入るまでが、ごく自然な成り行きで展開する。「この男なら、それくらいのことはやるやろう」と思わせる。かなり遊びを入れるが、南天の「ええ声」が生きる噺だ。
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