「梅田の“揚子江”いうラーメン屋でラーメンをごちそうになりながら、話を聞いてもらった。“大阪芸大の尾崎というものです。弟子にしていただきたいと思って来ました”言うて。そしたら、なんかええ具合に思いを聞いてくれはって。
そのときは、枝雀師匠の奥さん(かつら枝代、寄席の下座=三味線奏者)も一緒やった。
僕は、奥さんに“三味線お持ちしましょうか?”言うたんです。奥さんは“見ず知らずの人に三味線預けられません”て言わはりましたが、それにめげずタクシーに乗って帰らはるようやったので、僕パーッと走って行ってタクシー止めて。学生で、こんな気がつくやつ、おりまへんやろ」
破門の一歩手前も経験する
南天の話はそのまま「噺」である。木戸銭を払いたくなる。この機転で、べかこの師匠の枝雀夫人の覚えもめでたくなり、それやこれやで入門を許された。
南天の師匠の三代目桂南光、当時の桂べかこは、二代目桂枝雀の惣領弟子だ。枝雀一門はみんな「雀」の一字をもらっているが、べかこは、枝雀がまだ桂小米を名乗っている時分に入門したこともあって、ひとり「雀」を名乗っていない。
独身時代の師匠と2人で共同生活を送り、弟子というより「高弟」に近いかもしれない。やはり上方の落語家らしい「ええ声」の持ち主。関西では早くからテレビ・ラジオで活躍したが、同時に米朝一門の俊英として頭角を現した。一言で言えば、何事にも達者で、しっかりした人なのだ。
「うちの師匠は、ほんまは弟子は取りたくない人なんですよ。構われるのが嫌いで、なんじゃかんじゃ世話されるのも嫌いなんですよ。それに弟子とったら教育せないかん。
それまでもお弟子さんはいはったんですが、みんな辞めた。僕も破門になってます。そのときに“辞めます”って言わんと、なんとか謝りたおして残してもらって、ここまできてるようなもんです。
怒られる『波』というか、“あ、辞めた人はここで辞めてしもたんやな”いうのがあるんですよ。師匠は理不尽なことを言う人ではなくて、僕が白いものを黒と明らかな間違いをしたときに、大怒りをしはる。そのときに“これはもう辞めなしゃあないわ”となるわけです。
でも、そこで辞めへんかった。師匠の落語が好きですし。辞めなかったら僕は絶対にほかの人よりおもろい落語するようになる、ていう自信があったから。理不尽な理由で叱られたら辞めたかもしれませんが、そうじゃなかった。“これは痛いなー、つらいなー”というところを突かれたから、こらもう仕方がないなと」
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