和解には、明確な言葉による謝罪もありますが、言葉を必要とせず、相手を信頼することで成る和解も少なくありません。
映画『愛と喝采の日々』では、外泊した妻に夫は強い疑念を持ち、動揺します(実際、妻は不倫していた)。
しかし妻の、「愛しているからあなたと結婚した(今も後悔していない)」という一言で、夫は妻を全幅に信頼します。この夫は、妻の不倫行為の真相はどうでもよくて、今現在の妻の本心が重要だったのです。この映画では、妻の浮気に関しては、夫から問いただすことは一切なく、妻を信頼することで再生します。
私がこの映画の主題でもない、一瞬の、夫婦の再生シーンに強い印象を持ったのは、決してそれが、絵空事と感じなかったからです。男女を入れ替えてみればわかりやすいように、昔から、数えきれないほどの夫婦が大なり小なりこのようにして、この種の難局を乗り越えてきました。
あなたは妻の反省の本気度を疑っていますが、彼女が毎日シュンとしてあと何百回謝れば、気が済みますか? 彼女からどのような言葉を聞きたいのですか?
不倫している友人と張り合って不倫したなど、行為も相手もその程度だから、過去になるのも簡単だったのです。
あなたがそこにこだわることは、消えた炭火に薪をくべて、懸命に火を起こすようなものです。
他人と比較することも時には必要
「他人と比較するな」とよく言われますが、他者の不幸や不運に心を寄せつつも、そのことで自らの感謝すべきことに気づく比較は、そんなに悪いことではないと思っています。
私は困難に直面したとき、地球の反対側にいる人から身近な人の困難まで、いくつかを思い起こすことにしています。それは自分が抱えている困難の小ささに気づき、大げさに悩まず、対処するのを容易にしてくれます。
私がよく思い起こすことなのですが、大病と闘っている人やその家族、幼子を抱えて難病と闘っている親御さんたちの心痛に比べれば、大概の困難は小さく見えます。
そんな特殊なケースと比較するなと言われそうですが、先日の京都アニメーションの事件にも見られますように、私たちは、被害者の親と紙一重という社会で生きています。
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