「恋愛=幸せ」とは違う価値観が愛される理由 マンガ「裸一貫!つづ井さん」が描く幸せ

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恋愛ものは、刑事ものや病院ものなどの深刻な事件が起こる物語と並び、喜びや悲しみ、怒りなどの感情を豊かに描くことができる。観客は、現実生活の安全性は保ったまま、大きな感情の起伏を非現実の物語に寄り添って体験することができる。だから、事件や医療現場などを描かない映像作品は、恋愛を描きがちだ。

だが、現実生活の中で、恋愛がほとんどを占める時期は、人生の一時期あるかないかという人が多い。つづ井さんのマンガが売れているのは、よりリアルな作品を求める人たちが見つけた、独身生活の楽しさを表現する希少な作品だからかもしれない。

ささやかだけど、幸せな日々

3つ目の理由は、描かれている日常が普遍に通じていることだ。つづ井さんのマンガは、たまたま恋愛をしていない、オタクの女性が主人公なだけ、と捉えることもできる。よく練られて描かれた彼女の日常は、立場を置き換えても成り立つのだ。同じ趣味を持つ仲間と、その趣味を語り合い、一緒に楽しむ時間。悩みを相談し寄り添える友人がいる幸せ。

一人の休日でも、つづ井さんは忙しい。ため込んだDVDを観てマンガを読むだけで、充実している。大好きな役者を追いかけて、公演を見るための旅をする。その人を見られた喜びを反芻する。

列挙してみると、つづ井さんのささやかな幸せが、若い人も年齢を重ねた人も、体験したことがある日常だと気がつく。好きな世界に没入する喜びや、悩みを誰かと分かち合えた喜びや安心感に、覚えがある人は多いのではないだろうか。むしろ、恋愛という非日常の描写がない分、ささやかだけれど幸せな日々の存在感が作品中で大きくなる。

盛り上がる場面がささやかだからこそ、安心できる人もいるだろう。SNSには日々、旅行やごちそうを食べたなどのイベントが報告されている。世の中には事件があふれている。テレビドラマの主人公たちは、恋愛に悩み、事件を解決しようと奮闘し、病気の人を回復させられないことに苦しむ。

そんなドラマチックな生活とは縁遠い人は珍しくないし、もしかするとそういうドラマが少ないほうが現実は幸せかもしれない。それを幸せと言ってはまずいような風潮だからこそ、あえて本当のことを告げるマンガに、人は救われ仲間意識を持てるのである。

阿古 真理 作家・生活史研究家

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あこ まり / Mari Aco

1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに、ルポを執筆。著書に『『平成・令和 食ブーム総ざらい』(集英社インターナショナル)』『日本外食全史』(亜紀書房)『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた』(幻冬舎)など。

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