「私に養子だということを悟られないよう30年間育ててきて、本当にすごいなと思いました。反抗期にすごい言い合いをしたときなんか、『血のつながってない子なのに』とか、ぽろっと言っちゃってもおかしくないじゃないですか。そういうことを思うと、もう頭が上がらない気持ちになって。
ただ、やっぱりショックではありました。私はあのふたりを父と母だと思っていて、自分はふたりの子どもだと思っている。でも“本当の子ども”ではないし、生物学的にはつながっていない。かといって、今の父と母の遺伝子をもらって生まれていたら、今の私にはならない。そういうのが、すごくもどかしくて」
なぜ「もどかしい」と感じるのか? もしかすると彼女は「血縁の親子」=「本当の親子」というふうに、心のどこかで思っているのかもしれません。でも、「本当の親子」って、いったい何なのでしょうか。
以前ある女性から取材で聞いた、こんなエピソードを思い出しました。小学生の息子が、血縁関係のない父親と遊んでいたとき、近所の人が悪気なく「本当の親子じゃないのに、仲いいわね」と声をかけたところ、息子が「本当って何? 血がつながっていないと本当じゃないの? これが本当じゃないなら本当の意味がわからない」と泣いたという話です。
「本当の親」かどうかは、子どもが決めること。大人が判断することではないでしょう。このケースとは逆に、子どものほうは「親」と思っていないのに、大人が勝手に「親」にならねばと気負って空回りするケースもよくありますが、どちらも的外れなところがあります。
「もどかしさ」を感じていたのは、彼女の母親が先だったのかもしれません。自分の子どもなのに、自分は産んでいない。「血縁の母」ではないという母親のもどかしさを、千秋さんは内面化していたのでしょうか。
もうひとつ千秋さんがショックだったのは、「養子だということを、私以外の全員が知っていたこと」でした。父方も母方も親戚はみんな知っていたのに、「私だけが知らなかった」ことについては、嫌な気持ちになったそう。
生みの親に会ってみたい気持ちは「少し、ある」といいます。いちばん気になるのは「どういう顔なのか、どういう体型をしているのか」といったこと。あとはやはり、親の体質や病歴なども知りたいと思うそうです。
筆者はこれまでも、AID(非配偶者間人工授精)や産院取り違えなど「血縁の親がわからない」という人に取材をしてきましたが、「血縁の親に会いたい」という気持ちのニュアンスは人によって異なることを感じます。
彼女の場合は、人から「自分の過去を知ることと、生みの母に会いたいと思う気持ちは別物」と言われて納得し、落ち着いた部分もあるのだそう。
養子であることを知らないほうがよかったと思うか、と尋ねると、「私は知ってよかったと思いますね。(自分の人生が)1本の線でつながったような感覚があって、モヤモヤした部分がスッキリし、生まれ直したような感じがあるので」ということでした。
知らぬ間に親の夢をかなえていた人生
なぜ人生の途中で出自を知ったほかの人と比べ、彼女は怒りや悲しみより、感謝の念を多く抱いているのか? 考えながら話を聞いていたのですが、「これかな」と感じたのは、例えばこんなエピソードです。
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