1987年、ベンツに5日間徹底取材して学んだこと 最古の自動車メーカーの原点がそこにあった

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ちなみに、メルセデス車を生み出すダイムラー・ベンツ社は、1986年当時、約60万台の乗用車と23万台の商用車を生産していた。

単純に生産台数だけを見れば、巨大なメーカーとは思い難い。が、メルセデスの乗用車は台辺りの単価が非常に高いし、6トン以上の大型トラックで世界一の座を占めていた商用車にも同じことが言える。

当時のアメリカの経済誌『フォーチーン』によると、1986年度の世界企業50社ランキングで、ダイムラー・ベンツ社は13位、自動車メーカーとしては4位にランクされていた。

シュトゥットガルト空港には本社の広報スタッフとドイツ語の通訳が迎えに来ていた。2人とはすでに顔なじみ。仕事も何度もしていたので、最初から和気相合。いいスタートが切れた。

まずはホテルで打ち合わせ。そして、ディナーを共にして1日目は終えた。というと簡単に終わったように思うだろうが、そうではなかった。

まず手渡された数枚の用紙にプリントされたスケジュールを見て驚いた。毎日、朝8時から夜10時まで、ビッシリ予定が詰まっている。加えて、朝食も昼食も夕食も、すべてにいろいろな分野の担当者が同席する。

「すごいスケジュールですね!」と広報氏に言ったら、こんな答えが返ってきた。

「いやー、岡崎さんの貴重な時間を1週間も割いていただいたので、こちらも可能な限りの対応をして、メルセデスを深く知っていただきたい……、そう考えての結果です。確かにタイトでタフなスケジュールですが、われわれの熱意だと捉えていただければうれしいです」と。

32年前と今のメルセデス

どこをどう回ったかは忘れたが、シュトウットガルトの本社と本社工場、カスタマーセンター、テストコース、ミュージアム、ジンデルフィンゲン工場、ブレーメン工場等々を取材した。西ベルリンに拠点を構えていたダイムラー・ベンツ社のシンクタンク、「ベルリン・リサーチグループ」も訪れた。ドライビングシミュレーターを体験し、取材するためだ。

1987年当時の西ベルリンは、東ドイツに囲まれ隔離されていた。西ベルリンへの一般人の足は、西ドイツから飛ぶアメリカのPAN AM(パンナム)航空機に限られていた。

「ベルリンの壁」も見せてもらったが、国境を仕切る壁の手前と向こうの違い、つまり、「西と東の違い」には戦慄さえ覚えた。このことについては、また改めて書く。

この取材からすでに32年の歳月が経っており、クルマを取り巻くすべてが大きく変わっているし、メルセデスも紆余曲折を重ねてきた。

「最善か無か」という創立以来の社是を捨てて、近代化というか、合理化というか……を急ぎすぎて失敗したこともあった。電子制御化にいきなり大きなステップを踏みすぎて失敗したこともあった。

しかし、失敗し、一時期後退することはあっても、メルセデスには「戻るべきところ」があった。それは、最古の自動車メーカーとして、営々として積み重ねられ、練り込まれてきたクルマ作りの原点に立ち返ることだ。

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