柴山:問題は、現代における自己統治と欲望充足は、経済的な視点からはほぼ同じに見えるということです。経済的に自己統治するというのは、要はちゃんとしたサラリーマン生活を送るということですから(笑)。
自己統治は近代以前においては政治の言語として使われていた。それは経済の言語としても、同様に使うことができる。共同体という社会学用語も経済に置き換えて、利益共同体と同義とみなすことができる。
例えば企業ですね。合理的に行動する個人は、自らの利益になるのなら共同体に参加するし、ならないなら出ていく。アメリカはまさにそういう形で企業文化を発達させていった。
佐藤:昔はアメリカでも、企業城下町的な共同体がありました。GM(ゼネラルモーターズ)創業の地で、同社の労働者が多かったミシガン州フリント市など、地域ぐるみでGMへの感謝パレードをやっています。
つまりGMとは別に、フリントという共同体があった。とこらが今では、アトム化された個々の従業員が、多国籍企業とじかに向かい合っている。近代国家において、個人が共同体抜きで国家に向かい合うのと同じ構造です。
共同体としての企業というシステムを創り上げた
柴山:それこそ近代の企業文化ということでしょう。企業というシステムをいちばん発達させたのはアメリカですから。資本主義と矛盾しない、近代社会におけるある種の共同体原理を、ある意味では見事に創り上げた。
中野:共同体としての企業については、デニーンもOKなのではないですか。ただ企業文化の下での共同体的な経営スタイルも、リベラリズムを徹底させると消えてしまう。そういう流れが我慢できないと彼は言っている。いつの時代がいちばんよかったというのではなく、「リベラリズムは不純なままであるべきだ」という視点ですね。
施:純化を志向するリベラリズムへの制約となるのは、インフォーマルに育まれ、自生的に発展してきた文化であり慣習であるということでしょう。デニーンは「リベラリズムはそういう存在を本来的に許容できず、純化すべき対象とみなしてしまっている」と考えています。
柴山:ただ放っておいても不純なものは入りますよね。企業だって、長年同じメンバーでやっていれば単なる利益では動かなくなってくる。それは経済原理主義的に見れば不純なあり方と言える。
施:リベラリズムはそうしたよどみの発生を嫌って、ボーダーレスにして人々を混ぜて、特定の場所の文化、時代の文化、インフォーマルな慣習を極力消していこうとするわけです。
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