中野:彼らからすれば国民国家という形も過渡的なもので、地域共同体と同様にリベラリズムが純化していくと溶解していき、個人と世界政府が直接対峙するという形に昇華していくべきものなのかもしれません。
問題は「『そういうリベラリズムはおかしい』と言っている学者もいるんだ」と教えてくれる人が日本には非常に少ないということです。僕は高校時代、バークやアレクシ・ド・トクヴィルの名前を聞いたこともなかったですよ。みんなで輸入学問を勉強しておきながら、なぜ社会契約論とは違う思想は輸入しないのか。
柴山:近代憲法は社会契約論とセットですからね。「政府を縛るのが憲法だ」という考え方の裏側には、「憲法は人民が政府との間の約束でつくった」という社会契約論のフィクションが張り付いている。とくに今の日本国憲法は、社会契約論によって根拠付けられてきた歴史があるので、批判を許さないところがあるんでしょう。
施:日本の西洋受容にはそういう偏ったところがありますね。高校の公民の教科書を見ても、社会契約論をはじめ啓蒙主義についてはかなりの記述があるけれども、バークのような保守思想はまったくと言っていいほど出てこない。『フランス革命の省察』の著者であるというぐらいのことは書かれていても、思想の内容はほぼ紹介されていないんです。
佐藤:気に入らない学説だと、輸入してもまともに向き合わない。「お説ごもっとも。欧米ではそうかもしれません。でも日本はまた別です」という感じで頬かむりする。
施:1つには、保守派の議論ではヨーロッパ人が西洋の伝統を踏まえて、「もともと俺たちはこうだった」と言っているわけですが、日本にはそれがないわけで。
佐藤:福田恆存は1947年に書いた『近代の宿命』で、「そもそも近代が確立されていない日本に、近代の超克ができるのか」という旨を指摘しましたが、何も変わっていませんね。
リベラリズムと共同体
柴山:僕がこの本で気になるのは、「リベラリズムが文化を壊した、共同体を壊した」というけれども、自由と文化、あるいは自由と自己統治された共同体とはそんなに対立するものなのか、ということです。
中野:自己統治とは自律という意味で、そこには近代的文脈で言うところの自由の意味も一部含まれている。自己統治をさせないような専制国家には反対する。その意味ではリベラルといえるでしょう。ただし、リベラリズムにおける「解放」とは違います。
施:おっしゃるとおり、古典的な文脈の自己統治とは社会制度からの解放という意味ではなく、バーチュー(virtue:美徳)を身に付け、低いレベルの欲望を自分の力で押し止められるようになることですよね。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら